夏の気配、そして歩いても歩いても |

昨日もどうしてここまで、というくらいに晴れ上がってくれた。
パリを離れて10日になる。
お昼のわが町に買い物に出てみた。
まず気付くのは木々の緑が膨れ上がっていることだ。
そして、いろいろな花が一斉に挨拶をしてくれている。
この時期の10日ほどの時間がこれほどまでの変化を与えてくれていたとは、
感嘆する。
夏の気配に気分が浮き浮きする。
今日に限り、研究所の時間が価値のないものに見えてきた。
久しぶりに映画でも見に出かけることにした。
映画は昨日紹介した是枝裕和監督の 「歩いても 歩いても」 (Still Walking)。
そこにあったものは、日本のどこの家庭でもありそうな日常風景。
お盆や正月に家族が揃う時に起こりそうな些細な会話や出来事。
日本人であればどこかで思い当たるところがありそうな景色。
もちろん、私も例外ではない。
溺れた子供を助けに行った長男を海で失った痛みを、苦しみを、憎しみを底に抱えて生きている夫婦。
この世にはどうすることもできない理不尽なことが起こる。
それに耐えて生きなければならない。
われわれすべてがそういう生を生きているのかも知れない。
そのことに気付くか気付かないかの違いはあるだろうが、、、
昼間、坂で見かけた黄色い蝶々が夜家に迷い込む。
それを亡くなった息子だと言って捕まえようとする母親。
科学の頭では考えられないこの感性が人生を豊かにしているのかも知れない。
科学を信奉している現代が失いかけているわれわれの大切な部分がそこにある。
しかもそれがわれわれのほとんどを占めているのだ。
それを失って人間であることができるのだろうか。
それを取り戻そうとするのではなく、どんどん切り捨てて行って人間であることができるのだろうか。
予告編では父親が誰かわからなかったが、原田芳雄とは気付かなかった。
少々固い演技にも見えたが、どこにでもいそうな日本の父親のイメージは出ていたのだろう。会場の軽い笑いを誘っていた。
それにしても人の一生とは何と儚いものだろうか。
若い時には永遠にこの生は続くと何気なく思っているが、必ずどこかに消えるのである。
この映画の父親や母親と同じように、われわれすべてが消える。
このことを理解すると、人と接する意味が変わり、その時の心が全く変わってくる。
われわれはいずれ消え去る人と隣り合わせで接触しているのだ。
そこに共感が生まれないことなどあり得ないはずなのだが、、、
われわれは常に残される側にいる。
自らがいなくなる時は、どちらでもよいからだ。
そこで豊かに生きるとは、どういうことだろうか。
それは隣り合わせた人を、触れ合った人を記憶の箱に入れること、
その人のエッセンスを抽出して、自らの中に蓄え、それを引き出しては味わうことではないのか。
この映画の中で、死んでも消え失せるわけではない、というようなセリフが出ていた。
それはこの抽出作業を経て初めて可能になることだろう。
われわれの中には生きている人も死んでいる人も宿っている。
否、宿らせることにより、初めて豊かさが得られるのではないだろうか。



