歩いても 歩いても "Still Walking" d'Hirokazu Kore-Eda |
現世から離れて生活していると、今話題の人に疎くなる。
だからと言って、全く不便を感じない。
過去を現在として見ることができるようになると、話題の人の山である。
現世の比ではない。
想像もつかないような人生のダイナミズムを味わった人の山である。
突き抜けるような知性にも生き様にも出会うことができる。
今ほとんど失われている本当に大切なものを問うた人に出会うことができる。
人間であるとはどういうことなのかを考えさせる人に出会うことができる。
問題山積で身動きできなくなっている現世を変えることができるとすれば、
それは過去に還り、人間とは何か、という問いから始めなければならないだろう。
その問いかけなしに、今にしか目が向かっていないと見えるものも見えてこない。
見えていないことにさえ気づかない。
そして、お互いに首を絞め合って生きるようになるのだ。
ところで、今日の話題は昨日のル・モンドで初めて知った是枝裕和という監督の映画であったが、そこからなぜか上の瞑想 (迷走) になってしまった。
この映画、日本ではとうに終わっているはずだが、こちらでは始まったばかり。ということで今更になるが、この記事によると、場所は横浜、時は夏。今は引退している医者一家に集まった家族の風景ということになる。しかし、そこには何かが欠けている、しっくりこないものがある。それは何か (Qu'est-ce qui cloche ?)。それは溺れた子供を助けようとして15年前に亡くなった長男。後継ぎとして期待していた長男を理不尽にも失った親。息子が救った子供がまともに成長していればまだしも、そうではないらしい。職を変え、子連れと結婚したりと、しゃきっとしない次男 ・・・ 小津や成瀬の世界に共通する、日常の家族に起こる何気ない出来事を慎み深いユーモアとともに感受性豊かに描いている。この映画のテーマを、失ったものを乗り越えて生きる個人の力、というところに見ているようだ。
映画のタイトル 「歩いても 歩いても」 は、予告篇によるといしだあゆみ"ブルー・ライト・ヨコハマ" の一節から来ているようだ。周りの風景から少し浮いて聞こえたが、全体の流れの中ではどうなのだろうか。気分が向けば、見てみたいと思わせてくれる記事であった。


