まず Bonjour から始まる |
何を今更になる。こちらに来て、この Bonjour が大切な言葉であることに気付くことがあったが、まだ書いていないような気がするのでここで書いておきたい。ある店員が、鸚鵡のように Bonjour を繰り返していることがあった。こちらが要件を話し始めてもまだ言っているので、彼の意図を理解したのだ。最初に Bonjour がないでしょ、と大げさに言えば仁義を切っていると理解したのだ。
思い返してみれば、お店では声の大小はあるが、まずこの言葉を口にしている印象がある。比較的こじんまりしたお店では、見るだけに入ったので挨拶はいいでしょ、と思うが、ほとんど向こうから声をかけてくる。全くの他人が狭い空間に入ってくるのだから、相手方としても反応を見たくなるのもわかるような気がする。日本ではこの挨拶が余り身に付いていなかったようで最初は抵抗があったが、今ではこちらの方から声が出るようになっている。そうすると、その空間を気分よく味わうことができることがわかったからでもある。
店によってはマニュアルがあるのかも知れないが、そのようには見えない。フランス人には馴染まないような気もする。マニュアルで雁字搦めになっている日本で感じる白々しさは感じない。同時に、その人間が出てくるようなアドリブの効いた話も自由にできる。日本の場合にはそれは難しい。
アパルトマンのコンプレックスの中でもすれ違う時には必ず Bonjour が聞こえる。中には Bonjour に Monsieur まで付けてくれる人がいて恐縮するくらいである。日本のことを思い出しているのだが、そのようなことはほとんどなかったように記憶している。ほんの一言だが、何かが大きく変わる。Bonjour はそれほど重い言葉だったのだ。
このような主旨の文章には日本でも触れているはずだが、自らの中に変化を及ぼすことはなかった。日本に住んでいると、改めて立ち上がることが難しくなっているのかもしれない。何もしなくてもすべてが事もなく進んでいくという予定調和の考えに慣らされてしまっていたのかも知れない。外に出てみると、なぜそういう考えになるのか、なぜそこまで安心していられるのか、急にわからなくなる。
一気に夜が長くなり、嬉しいことに9時近くにならないと暗くならなくなった。
昨日の夜は、週末に亡くなったモーリス・ジャールさんのインタビューと耳に馴染んだ彼の曲が流れていた。