もう少しモーリアック、そしてカルチエラタン散策 |
週末の朝、写真をボルドーに送るためにポストへ。天気はよい。馴染みになった係りの人と軽い言葉を交わしてからカフェへ。モーリアックの 「ボルドー」 の続きをゆっくり読む。週末の朝のこの時間が好きだ。少し遅い朝食にして、少し早く始める昼食、すなわち "brunch" という文化があることを知ったのはもう30年ほど前のアメリカ。ずいぶん贅沢な時間の味わい方があるものだと感心していた。同じ人生の時間をこうも違った使い方をしながら生きている人たちがいることに驚いていた。
分厚いニューヨークタイムズを抱えて独特の匂いを持つイースト・リバー沿いのベンチに座るもよし、セントラルパークに向かうもよし、少し歩いて気に入ったコーヒーショップに入るもよし。そこでじっくりと新聞に目を通す。特に、マガジンには興味を引く記事がよく出ていた。もちろん今は、当時のニューヨークの空気が全身を包むような感じもなく、それを全身で跳ね返そうとする内なる高まりもない穏やかな時間だ。しかし、ニューヨークでの週末とつながるものを見たのだろう。遠い記憶が蘇ってきた。
「ボルドー」 では、故郷を持つすべての人に当てはまると思われる心情が語られている。自分と一体になった故郷に対する感情は複雑だ。愛憎 (これはニューヨークでも感じていたのでlove-hate relationship と言った方がぴったり) が絡み合う。モーリアックは言う。
"Nous aimons notre ville comme nous-mêmes, nous la haïssons comme nous-mêmes. Impossible de la renier, impossible de ne pas saluer en elle notre mère par le sang."
(われわれの町をわれわれ自身として愛し、同じように憎む。われわれの町を否定することはできない。そこにいる血のつながった母親に挨拶しないことなど不可能なのだ)
そしてこう続けている。パリジャンを気取り、パリ生活を楽しむのもよいだろう。しかし、作家として風景や人間を求める時、それはシャンゼリゼでもなければ、パリの街でもなく、セーヌ沿いの仲間でもない。それはボルドーの家族であり、単調なブドウ畑であり、輝きのない土地なのだ。ボルドーはわれわれの過去として生きている。それはわれわれの過去そのものである。その霧が永遠の匂いを運んでくる。私が知り愛することになったすでに亡くなった人たちが、私の深いところで今生きている人たちよりも生き生きとしている。
当時はその意味も理解していなかったが、ボルドーには今の私を作り上げることになるすべての要素があった、というような記述がある。彼はそれを後年に見つけていたのだろうか。このような感覚は、運命論者とされている私の中にもある。その時は何も気づかなかった過去のある出来事が今に繋がっているという感覚。意味のなかったものが意味を持ってくるという過去が浮かび上がってくるような経験。これは何ものにも代え難い。
"Bien heureux les errants, les voyageurs qui accumulent assez de paysages et d'horizons nouveaux entre eux et leurs jours révolus, pour ne plus entendre dans leur cœur les cloches submergées !"
(彷徨う者、旅する者は幸せなり。過ぎ去る日々と彼らの間に生まれる新たな地平や景色を十分に蓄え、心の底に沈められた鐘の音をもう聞かなくてもよいのだ!)
一旦帰った後、街に出ることにした。久しぶりに研究所と思ったが、時間があまりないので大学の方に変更。まず医学関連のリブレリーに入る。ここも久しぶりだ。間隔をあけておいた方が、新鮮な感覚で漁ることができてよい。そのお陰か、2冊ほどぴったりくるものが見つかった。こういう瞬間は嬉しいものである。資料を持ってきていたが、座っている気分ではなくなり、カルチエ・ラタンの散策に切り替えた。しばらく行くと、最近触れたばかりの人たちが英語の本を専門にしているリブレリーの窓に現れた。
ここでも興味が惹かれる本4-5冊に出会った。そのうちの一冊だけを手に入れたが、他のものはこれから様子を見ることにした。さらに散策後、メトロへ。帰るには少し早いので、降りた駅のすぐ前のカフェで飲みながら手に入れたばかりの本を読み始める。この本は、これから目を通さなければならない著者に捧げられていて、その本のイントロにもなりそうな印象がある。思わぬ本を見つけたものである。
いつもと変わらない週末の夕暮れ。
いつになく、次から次に現れる飛行雲を見た。