ピエール・アドーさん再び - 死の意識から生まれるもの |
後期新たに始まるクールに午前中出かける。ボルドーへの小旅行の影響か、気持のゴムが伸びきっていたのが引き締まっている感じがする。教室に向かうも人が一人もいない。秘書さんに聞いてみると、現在スト中とのこと。そう云えば、この週末フランス国内で大学の教師、研究者が大々的にデモをやっているニュースが流れていた。例のペクレス氏による大学改革に対する反対の声が相当に強いようだ。フランス文化に触れるようになり最初に驚いたのがデモだったが、彼らの頭と体が一体になっている様子に、ある種の健全さを感じていたのは事実である。日本では考えられないことだろう。
学生の身としては、休講が嬉しいことに変わりはない。早速、大学前のリブレリーで時間を潰す。今日は古代哲学のところで止まっていた。手にしたのはここで何度も取り上げているピエール・アドーさん。そこで1時間ほど立ち読みをしたあと手に入れ、向かいのカフェで夕方まで読み進んでいた。これなども旅行の影響ではないかと思っているが、集中力が高まっている。アドーさんとは2年前にパリで出会ったが、私の哲学に対する見方と同じ考えを持っている人を見つけたように思った。その時の印象はその後も変わっていない。今回も自分の言葉がそこにあるかのような印象を持ちながら読んでいた。その中からほんの少しだけ。
古代ギリシャに哲学の基本があるように感じているが、それがこれだろう。
« Se connaître soi-même, c'est se connaître comme nonsage, non comme sophos, mais comme philo-sophos ; comme en marche vers la sagesse. »
(己を知るということは、賢者として知を持つことではなく、非賢者として知を愛する者として、知に向かう運動として行われるものである。その運動を最後まで続けることを意味する) <下線は paul-paris による>
これが生きるエネルギーのもとになっているかもしれない。
« L'exercice de la mort est lié ici à la contemplation de la totalité, à l'élévation de la pensée, passant de la subjectivité individuelle et passionnelle à l'objectivité de la perspective universelle, c'est-à-dire à l'exercice de la pensée pure. »
(死に向けて行う精神運動は、ここでは全的なるものを瞑想すること、個人的で情的な個人性から普遍的視点を持つ客観性へと思索を高めること、すなわち純粋な思索運動と関連している)
死をはっきりと自分の中で意識できた時、すべてが変わる。価値観が逆転する。
そこから思索がより高い、著者の言う普遍的なところに向かう可能性が出てくる。
« Le sens de notre existence réside dans cette contemplation : nous avons été mis au monde pour contempler les œuvres divines et il ne faut pas mourir sans avoir vu ces merveilles et avoir vécu en harmonie avec la nature. »
(われわれの存在の意味は、この瞑想の中にある。われわれは神の作り上げたものを凝視・瞑想するためにこの世に落とされたのである。この素晴らしきものを見ることなく、自然との調和の中に生きることなく死ぬことなかれ)
もう数年前になるが、このエピクテトスの言葉と同じことをより広い意味ではっきりと感じていた。それは、これまで人類が創り上げ遺してきたものに触れ、自分なりに理解しようとする運動をすることなくこの世を去ることなかれ、ということであった。
哲学的生活は日常生活の中にはない。
スピノザが言うように、美しいものは稀であると同時に難しいものである。
どのように両者の折り合いをつけて行くのか、それが問われているのだろう。