アポロンからディオニソスへ? |
今年は生活にダイナミックに対比を取り入れてリズム感を持たせていきたい、と昨日書いた。今朝、本を手にとって開いたページがニーチェになっていた。そこには次のようなことが書かれてある。
「科学的真理もニーチェの振り下ろす斧からは逃れならない。科学が客観的で、実験的反駁に対して開かれているとは言っても、所詮プラトンの幻影の末裔にしか過ぎないのだ。つまり、科学は客観性、非個人性、研究者の献身、自己犠牲、発見の前での無名性を崇拝する宗教の一形態である。
この考えの背後には、賢者の傲慢、真理を独占しようとする意思、そして司祭のように次に続く支配の確立などを足蹴りにして退けるニーチェを見る。科学的に確立された真理は、何よりも信仰 (croyance) によっている。それは、真理は誤謬に比して好ましく、無知よりは知を、幻影よりは真実を好ましいとする基本的な信仰である。この過激な反逆者にとって、見せかけの真理よりは豊かで有用な幻影や誤謬は愛すべきものであった」
さらに進むと昨日書いたことにつながることが出てきて、不思議な気分になる。
「細心さや偏狭な知識によって科学が得る客観的真理に対して、ニーチェはギリシャ人の中に横たわる対立の意味するところを明らかにしながら再現する方を選ぶ。それはアポロ的なものとディオニソス的なるものの永遠の緊張関係である。アポロ的なものは秩序、節度、明晰、理性を支配し、ディオニソス的なものは酩酊、制御不能、無秩序、逸脱、狂気とともにある」
(Roger-Pol Droit "Une brève histoire de la philosophie" から)
ニーチェがギリシャに見ていた悲劇の二極対立を元に考えると、これまでのパリ生活はアポロ的なるものが支配していたかに見える。そこにディオニソス的なるものを取り込み、両者の緊張の中でこれから生活しようと言うのだろうか。