中村雄二郎による吉田健一の言葉 |
哲学者の中村雄二郎さんが吉田健一氏の「言ふことがあることに就いて」というエッセイについて書いている。その中にあった「自分を動かす言葉を探す」という言葉に共振。以下にそのあたりを。
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さて、そのためになにか自己主張が必要になり、明治以後の日本では小説まで含めて自己主張の強い文章が大勢になった。と同時に、本来その必要のない日本語の文章で一人称単数の代名詞が頻繁に使われるようになり、<自我>や<自己意識>が西洋にも見られないほど特別視された。あのルソーの『告白』にしても、実は≪誰についてだろうと公表する価値のないことを自分に就いて公表するといふ≫ことをしたにすぎなかったというのに。
それに西欧では、≪書くのが主張することでもある≫場合にも、その<主張>の意味が違っている。たとえばF・ベーコンの『ノ―ヴム・オルガーヌム』での<帰納法>の主張がそうである。それは、≪その論に接するものの共感を得るやうに言葉で或る一つのものを築いて行くこと≫であった。あることを適切に述べさえすれば、当然説得力を持つのである。≪これは我々が人よりも自己自身を動かす言葉を探すことによってしか言葉を有効に用ゐることが出来ない≫ことからもわかる。つまり、自分を動かす言葉を発見することが他人の共感をうる所以なのだ、と吉田さんは言っている。
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≪我々に言ふことがあるのがどういふことなのか言ふまで正確にわからない。・・・・言葉を得て我々に言ふことがあったといふのがどういふことだつたのか解る。≫
≪我々に言ふことがあるのであるよりも寧ろ自分が探して得た言葉でも言葉に動かされることを我々が求めるのである。その動かされるといふのは要するに働きかけられることであつて我々が或ることをその通りと認めるのもその言葉があつてのことである。≫
≪言葉そのものが動くのである。それは次の言葉を求めてであつて論理がその次に来てはならない言葉を我々に教へてもそこに来なければならない言葉を得るには我々は再び闇に目を向ける他ない。・・・・それは生命の意識でもある。≫
≪我々は言ふことがあるのではなくて言葉に教へられることを求めて言葉を探す。≫
≪我々に言ふことがあるのではない。我々が望むのは言葉に触れて生きる思ひをすることなのである。≫
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中村雄二郎「哲学の五十年」(青土社、1999年)より
こちらに来た当初の3年前にもこの本を取り上げていた。
ここでは中江兆民の言葉が掬い取られている。
昨日のお話とも通じるような。
日本では哲学は不可能か(2007-10-22)