歴史の断裂、内的生活の喪失、そしてその回復 |

今回の日本滞在でいろいろな方と言葉を交わす中、浮かび上がってきたことがある。それは、ここで取り上げてきたことと通じることが多い。その一つが最近の日本人は考えていないということ。さらに言えば、内的生活、精神生活の欠如という問題になる。その背景には、まず現実の問題を解決することが先で、内的生活などというものはそれが終わってからのことではないか、ましてや理想や夢物語を語る前にやることがあるだろうという考えでもあるのだろうか。
ところで今回、多田富雄先生を偲ぶセッションの後、京都賞受賞者でもあるアメリカ人学者と言葉を交わす機会があった。この学問領域の歴史を振り返り、同じく免疫学者の奥様が興味深い話をされた。今から数十年前、アメリカ人研究者の何人かは競争相手の日本の研究者を潰すために動いたことがあったという。また、こういう指摘もされた。昔の日本人研究者には科学だけではなく、そこを超えた素養のある、人間としてしっかりした人がいたが、その伝統がほぼ一代で断裂してしまった。その結果、今や物質主義や商業主義に溺れた研究者で溢れていると嘆きにも似た話をされた。指導層がそうなれば、若い人はそれ以外の世界は見えなくなる。人間的側面を失った科学者は尊敬に値しないという思いが伝わってきた。
フランスにいることを話すと、彼女自身がフランスの大学で学位を取ったこと、また彼女と研究を共にしていた方がフランスに住んでいるのでコンタクトしてみては、との反応。その方はジャーナリストだったが、科学に触れて興味を刺激されたのか、今はコンピュータのソフト開発を専門にしているという。それから、会場にその方の開発したソフトが展示されていて、展示担当者も面白いので顔を出すようにとの言葉も。私の話を聞いたその担当者は、科学と哲学の話から始まり、自分の興味は科学と宗教の関係なのだといって熱を込めて語り始めた。そして、必ずしも同意はしないが、論理の展開がしっかりしているので興味深い読みになるだろうと言ってある研究者を紹介してくれた。こういう展開はいつも喜びを運んでくれる。
歴史の断裂と言えば、以前にチュニジアの学生さんが指摘していた日本の戦後の状況を思い出す。なぜ日本人は第二次大戦後自らの過去をいとも簡単に捨ててしまったのか、というあの問いである。帰りに入った書店で、この疑問について書いてある本が目に入る。
中西輝政 『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』 (2006年)
Google ブックスで読める。
中西氏の分析によると、先の大戦中から行われていた日本人研究、実戦の期間を遥かに超える戦後のGHQをはじめとした勢力による徹底した情報操作(洗脳とも言える)が原因で、結果として日本人の精神は完全に骨抜きにされてしまった。それを見抜き、行動するだけの力がわれわれにはなかったことを意味している。ただ、そのからくりがわかっていても生活がかかっている状況では行動できなかったことにも理解を示している。
この中で次のようなことを言っている。「生身の日本人」についての分析はこれまでもされてきたが、日本人を形作っている歴史的背景についての分析(文明論的とも言える)は弱かった。この視点は国体というところに行きつかざるを得ず、それを避ける心理が働いていたのではないかと見ている。その上で、これからはそこに目を向けるべきではないかと指摘している。この点は、私がフランスに行った時に注意していたこと、すなわち、今生きているフランス人の中に息づいている伝統のようなものを見ようとしていたこととも繋がっている。表現型から遺伝子型を探るとでも言えるだろうか。そういう視点から見ることの面白さ、それなくして事の根がなかなか見えてこないのではないかという認識、それなくして未来は開けてこないのではないかという予感にもつながる。
また、今回話をした多くの方がマスメディアの堕落についても指摘されていた。それとは別に、テレビを見ていて改めて気付いたことがある。それは、映像は情報の取得には効果があるかもしれないが(ものによってはそれも極めて怪しいことが見えてきたが)、表面的な現象をなぞるだけで自らの内面に深く入る機会を奪っていることである。この3年ほどテレビから遠ざかっているので、その対比がよりはっきりと見えてきた。マスメディアから離れることにより、生活が豊かになる可能性があることを意味しているようにも見える。



