猛暑の中、大拙さん再び現れる Écrits de Daisetsu T. Suzuki |
昨日の朝、ラジオからカニキュール canicule という言葉が聞こえた。先週から連日の暑さ。ブログの温度計は34℃を示している。5年前にパリを訪ねた時のことを思い出す(こちらから)。
ところで、先日のモンペリエで表紙を見てすぐに手に入れた本がある。この方のもので、オリジナルは The Field of Zen。1969年に出版されている。
鈴木大拙 (1870年11月11日 - 1966年7月12日)
Derniers écrits au bord du vide (Albin Michel, 2010)
心頭滅却すれば、の心境か、1953年から亡くなる2年前の1964年までの文章を読んでみることにした。
禅は唐の時代の中国で、中国の心理学とインドの哲学が一緒になって生まれたもの。中国の実利精神とインドの深遠な形而上学の統合されたものと言えるだろう。読んでまず感じたことは、西洋哲学の概念を使って説明しているので西欧人に理解されやすいのではないかということ。
知性の発達に伴い、西洋ではデカルトに見られるように、主体と客体、観察する側とその対象が分かれてしまう。その状態では現実を分析的に見るようになり、対比、対立、矛盾などが必然となる。主体と客体が分離した状態になった途端、禅は理解できなくなるという。知性はわれわれに満足を齎さない。問題の解決は外にあるのではなく、常に内から現れる。自己とそれ以外の外の世界が一体にならなければ満足な回答は得られないと考える。
彼はこういう言い方もしている。prajna と vijnana を分けて考えることが重要である。prajna とは本能的な知で、日本語では般若(悟りの結果得られた智慧)になる。一方のvijnana は論証による知で、識と訳されている。つまり、prajna は世界の実在(現実)を哲学的にも物理・化学的にも解体することなく、その全体として捉えようとするのに対し、vijnana は主体と客体を分け、分析的に理解しようとする。まさに、holisme と réductionnisme の対比と置き換えることができるだろう。問答の中で、相手が知性を働かす方向に移った時、師はこう語りかける。" Prenez une tasse de thé. " (お茶でも一杯いかがですか)
問答がそこで止まってしまい、師はそれ以上答えないので西洋人は困ってしまうだろう。禅が何のことか理解できないというのもわかる気がする。ただ、このような分析的な説明を受けると、ぼんやり禅問答を聞いている時とは違う効果があるのではないだろうか。
悟り (satori ← bodhi) についての文章もあり、興味深い考え方が書かれている。彼の説明ではこうなる。最初は主体と客体が一体になっているが、ある時から何かの力により主客を分けて世界を見るようになってくる。それが再び一体になる瞬間が悟りだという。しかし、この悟りはその状態に落ち着くことではなく、飽くまでも主客の分離から一体化への恍惚の瞬間であり、これが人間とそれ以外の生物を分けるものだとも語っている。忙しい日常に追われていると、主客が分裂した二元の世界に生きていながらそれに気付かないことがほとんどである。悟りは意識が外に向いている状態では決して訪れない。悟りに至るためには、日常を徹底的に排除する必要がある。それが samadhi (三昧)の役割になる。三昧を通して、内面と世界が一体になる時、内的な平和が訪れ、世界を理解できるようになると言いたいようである。
4年ほど前、ハンモックでも大拙さんのお人柄に触れたことを思い出す。コメントのやり取りを読み直してみると、こちらに来る直前の心象風景が浮かんでくる。
鈴木大拙 DAISETSU SUZUKI, GRAND PHILOSOPHE BOUDDHISTE (2006年1月8日)
今回ウィキを読んで驚いたのは、彼が仏教に関するエッセイストというニュアンスで紹介されていることであった。彼の仕事に詳しいわけではなかったので、上の仏訳でもわかるように彼のことを仏教に関する哲学者だと思っていたからである。また、彼が禅の僧侶ではなく、長くアカデミアの中にもいなかったこと、その著作は禅の考え方を用いて日本的なるものを書いていたに過ぎないことを根拠に彼の仕事を批判する人がいることもわかった。しかし、カール・ユングが言うように、西洋に禅の思想を理解させる切っ掛けを作ったこと、さらに彼の人生における仕事のやり方については評価されてしかるべきではないだろうか。
今しがた、雷を伴った通り雨があった。
もう少し続いてくれと願ったが、再び蒸し暑さが戻ってきてしまった。