コンフォーミストを乗り越え、新しい言葉を携えて |
一人ひとりがその存在の内にあるモーターに従って生きる。
この世に唯一の存在として生きる。
それはよいことではないか、そうあるべきではないか。
しかし、価値判断の前に、それ以外には生きられないだろう。
生を十全に生かそうとするならば。
われわれは、自らを周りに合わせながら歩み始める。
そうして言葉や日常生活のやり方をを覚える。
自らの文化を学び、社会での振舞いを習得する。
この危うい生命は、コンフォーミストとして出発せざるを得ない宿命を負っている。
そうして社会の中に入ると、今まで従っていたものが圧力に変わってくる。
しかし、問題はまさにそこにあるだろう。
その圧力を客観視できるかどうか。
そこから抜け出ることができるのか、あるいはそこから自由な視点が得られるかどうか。
ここで重要になるのは、専門の知識ではなく、それを超えたところからものを見る知。
それが哲学であり、歴史になる。
人間に対する眼差しであり、思索になる。
少し離れた空間に身を置き、新たな知に触れながら世界を眺めることだろう。
そうしてもう一度、この世界に戻ってくる。
その時にはコンフォーミストとしてではなく、哲学者として。
自らが唯一つの存在であることを意識し、新しい言葉を携えて。
その言葉とは、それまで使っていた科学や専門の言葉を超えたものになっているだろう。
その時初めて、この世界の中にある自らを感じ、その中で対話ができるようになっているだろう。
人を結ぶ言葉は専門の語彙からは成っていない。
対話が成り立たない空間、そこでは個が本当に生きているだろうか。
コンフォーミストを一度乗り越えた個が集まっている世界。
皆がするから私も、ではない空間。
その空間は、やはり望ましいものに見えてくる。
そこからしか、生き生きとしたものは生まれてこないような気がしてくる。