実践と理論、それをフランス語にも |
3年目に入ってからフランス語を学びましょうか、という気分になってきていることについては以前に触れた。それを実行に移すことにした。私の場合、強制力が加わらないと続かない可能性があるので学校に通うことにした。基礎の基礎から始まっているが、この感覚はデジャヴュである。
科学での生活を終え、フランスで哲学を学び始めた時に似たような感覚が襲っていた。それまでは深く考えることもなく現場でやっていたその行いにある角度から光が当たり、その姿がよりはっきりしてくるという感じだろうか。雑然としていたものの中にある枠組みが見えてくるとも言えるだろう。それによって逆に科学の現場を見直す新たな視点が与えられることにもなった。詩的に言えば、清々しい風が頭の中を吹き抜けたように感じていた。
フランス語に至ってはとにかくその音の中に飛び込むことから始めたが、フランスにおいてもそのやり方は変わらず、フランス語と哲学の荒海に身を投げ入れた感がある。哲学については未だに沈んだままだが、フランス語についてはこのような学びの中でその構造が少しずつ見え始めているように感じる。それは哲学が科学に対して及ぼした効果のように、日常の中でフランス語を読む時に、ある枠組みを頭に置きながら構造を眺めることに繋がっている。実践と理論の相互作用が相乗的な効果を生む可能性を信じたいものだ。
ところで、フランス語には "franc" という言葉があるが、正直な、という意味のほかに、自由な、という意味もある。当時から自由を大切にしていた表れなのか、それがフランスの国名にも入っている。そして今でもこの国の民は自らの国を自由の国と称している。おそらく誇りを持って。そういう空気が住みやすく感じさせてくれている一因かもしれない、と先生の話を聞きながら思っていた。