ハンナ・アーレントの墓 La Tombe d'Hannah Arendt |
先日触れたペーター・ スローターダイクさんの本を読んでいて、そうだったのかという発見があった。彼がニューヨーク州のハドソン川沿いにあるバード大学構内を散策中、偶然にもその敷地内にドイツのユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント (1906年10月14日 ― 1975年12月4日) が眠っていることを発見したエピソードから始まるエッセイがあった。その小さな墓石は写真にあるように、地面から僅かに上がっただけの簡素で節度があるもので、すぐ横にはやはり同じ大学で教鞭をとっていた彼女の夫で哲学者ハインリヒ・ブリュッヒャー (Heinrich Blücher; 29 January 1899 – 30 October 1970) さんの同じように簡素な墓があるという。
スローターダイクさんが打たれたのは、アーレントの墓がこのように全く目立たないところに非常に簡素な形であることではなく、大学というエデンの園にも見立てられる locus amoenus (L. pleasant place) にあるということであった。そして、今のヨーロッパの教師で大学の敷地に眠りたいと思う者はいるだろうか、ヨーロッパの大学が生死を越えた教師のコミュニティとしての意識を持っているであろうかと問う。ここですぐに思い出したのは、パスツール研究所の博物館地下にパスツールの立派なお墓がある他、創立当時の研究者が敷地内に何人か眠っていることである。そこに私は目には見えない過去との繋がりや一体感を伴った落ち着きを感じている。
スローターダイクさんはアメリカの大学を取り巻く空間を見て、町と村、町と大学、墓と生者という3つの間にある境界が旧世界と違っていることに気付く。そして、なぜアーレントが村の墓地ではなく、ここを永遠の休息の場所として選んだのかを理解しようとする。それは、彼女の師であり愛人でもあったハイデッガーが大学でも、ましてや劇場や図書館のあるところでもなく、移動を拒否し最初に見た景色のある村メスキルヒ (Meßkirch) の墓地を選んだことと対照的でもあるからだろう。
キャンパスの墓地は村の墓地ではない。キャンパスは大学という町の都会性を象徴するもので、そこから世界に開くところでもある。ハイデッガーの墓と違うのは、彼女の墓が歴史的な論理の精神の中にあり、町が世界都市に変容するアカデミックな空間にあることである。彼女は1930年代に害悪が占領するヨーロッパを離れ、フランスを経てニューヨークに辿り着く。ニューヨークは彼女にとってアカデミーの町アテネであった。ニューヨークが古代ギリシャの町同様、村から町への精神と歓待の心に溢れるところだったからである。こうしてアーレントは地上における最良の場所で眠ることになった。そうスローターダイクさんは理解したようだ。
今回は、なぜか4日続けてドイツに関連した話題になった。