永遠を視野にエネルゲイアを取り戻す (I) |
あけましておめでとうございます。
皆様の内なる望みが形になりますよう願っております。
今年は遠近法を駆使して焦点を変えながら、できるだけ深く見ることに努め、そこから浮かび上がってきた形にならないものを丁寧に言葉に置き換える作業ができればと考えております。当て所のない旅になると思いますが、お付き合いいただき、時には参加していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
まず、昨日のスナップから。街に出るために歩き始めたところで、後ろから来た中年の男性が微笑みを湛えながら " Bonne fin d'année !" (よいお年を!) と声をかけてくれる。" À vous pareillement ! " (あなたにも!) と答えると、「来る年があなたに素晴らしいものを齎してくれますように!」 とはっきりとした口調で言いながら早足で通り過ぎて行った。どうしてもそれが必要な人に見えたのだろうか。
大晦日の感慨を引き摺りながらの元旦となった。昨日も触れたように、こちらに来てからの印象は、日々が満ちているというものだ。どこかに向かうために今ここにいるのではなく、今ここにあること自体が存在理由になっているという感覚だろうか。目的地がないのだから、現在が未来の犠牲になるという感覚がなくなる。最大の関心事は、今をいかに満ちたものにするのかという一点に絞られてくる。この視点は、日常のすべての時間に意味を持たせてくれる。今を味わわせてくれるようになる。
高度に発展し、分業化の著しい社会において仕事を持つということは、目的地に向かうことを義務付けられている。そのため、自分に意味のある時間とそれ以外の時間を分けざるを得なくなる。生きた時間と死んだ時間が生まれることになる。例えば、移動の時間などは本来的には重要ではなく、仕事から離れた意味のない時間として退けられる。それを救うのは、生きることを仕事とすることだろう。そう思えることだろう。なぜか今の生活は、生きることが仕事、という感覚を呼び覚ましてくれる。そこでは移動の時間と言えどもその中にたっぷり浸り、生きた時間となる。その時間を味わおうとするからだろう。「・・のために」 という視点が霞んでくるのだ。
まとめると、こちらに来てからの大きな変化は、存在そのものに意味を見出すようになり、今という瞬間に存在全体を埋めようとする精神の運動が起こっていると言えるだろう。したがって、どこに向かうのかは全くわからない。ただ、現在という瞬間に全体を浸すという営みを続けたその果てには、その存在が持っている生命の発露が見られるだろう。永遠の彼方にある最終的な姿には、それがどのような形であれ、その存在の奥に潜むこの宇宙に唯一無二の生命の創造性と言うべきものが顕れているはずである。命を生かすとは、実はこういうことかも知れない。そのことに気付くと、本当に命を生かしているのか、命を生かすことができる空間に今いるのか、と自問せずにはいられないはずだ。
この営みを難しくしているのが近・現代の社会ではないのか、という指摘がある。効率主義が跋扈し、人は常にどこかに向かう存在として位置づけられているからだ。時間を厳密に分けなければ生きていけないと考えたとしても不思議ではない。目を覆うばかりのテレビの惨状は、それが意味のない時間の埋め合わせとして認知されているためなのだろうか。
そんな思いの中、先月の日本で出会ったこの本を紐解いてみて、そこで展開されている議論が私のテーマの一つと重なっていることがわかった。
藤澤令夫 「ギリシャ哲学と現代 -世界観のありかた―」 (岩波新書、1980年)
そのテーマを一言で言うと、「物」・「客観的事実」 と価値・倫理・道徳の乖離を克服する哲学を手にすることができないかということになる。著者の藤澤氏はそのヒントを得るために、この乖離が生まれることになった源を探ろうとして最終的にはギリシャに至る。ここで言われる 「客観的事実」 は科学的アプローチが導き出すもので、価値や道徳はわれわれの日常に根差したところから生まれる。少し広く解釈すると、文理の乖離にも繋がるものである。
上に示した乖離があっても事がうまく進んでいれば問題はない。しかし、科学至上主義とも思える現代において、没価値をモットーとする科学が齎す弊害も多くなっている。その大きな理由は、全体から部分を引き離して解析するところがある科学という営みが、その価値や意味を考えることなく、部分のまま全体に適応しようとする結果ではないのかと考える。それに対して、哲学は存在するものを存在するものとして考察すると言ったアリストテレスの時代から、常に全体への視線がある。
「物」 と 「心」 の乖離は心身二元論の生みの親デカルトに端を発すると見るのが一般的だが、その根は遥か古代ギリシャにあると著者は言う。その一つは、レウキッポスとデモクリトスによる原子論である。これに先立ち、パルメニデスは次のように考えた。生成とか消滅、さらに運動や性質の変化など感覚に現れる世界は虚妄とも言えるもので、そのまま信じてはならない。真に存在するものは、理性(ロゴス)の審判に耐える不滅・不変・不動の存在であると考え、理性と感覚を分け、前者の重要性を説いた。レウキッポスとデモクリトスは真に存在するもの、すなわち世界の真実を構成する究極の要素として原子を想定し、種々の現象や知覚はその形、組み合わせ、動きによって決まる架空の世界であると考えた。
もうひとつの根は、「主語・述語=実体・属性」 として表わされるアリストテレスの世界の把握の仕方にあるという。それは、主語で示されるものが実体として独立に存在し、その属性が初めて述語として表わされるというもので、実体が属性から乖離して存在するという意味では彼が批判していた原子論と重なることになる。変化を重ねる世界の中で変わらない究極の実体を 「物」 として追及する科学の原型がここにできあがったと考えることができる。つまり、科学的思考とは、現象としての述語の基にある実体=主語を明らかにすることになる。この二元論をどのような形で乗り越えようとするのだろうか。(つづきます)