行動と沈思のリズム、そして人間を生かす環境 |
昨日は、まだ祝日の残り香があるパリの街中を数時間散策する。新たな発見もあった。途中、小さな雑誌屋さんで見つけたものをすぐ前のカフェで読む。そこでの主張が、あまりにもわたしの感じていたものに近いことに驚く。
ある方からのメールに答える中で、目的と手段という言葉が浮かんでいた。最近追われているように感じていたのは、手段だったものが目的のようになっていたからではないのか、と気付いたからだ。それまで自分がやりたいと思っていたことが顔を出し始め、学生としての本業との間に摩擦が生じていたのかも知れない。この2年間は、これまでのどの時期に比べてもよく沈潜していたのではないだろうか。それは沈み過ぎてそのままになりそうなくらいであった。そのため、他のことはやる気にならなかったのだろう。逆説的だが、その中にはフランス語も入っている。どうも一つのことしかできないようにできているようだ。そのお陰か、こちらに来る前に比べると興味の対象が広がっており、おそらくものの見方も変わってきているはずである。もう少し時間が経てば、それが見えてくるかもしれない。
ところで、二つのことを同時にできないこの性質をどう見ればよいのだろうか。これまでの研究生活を振り返る意味もあり、こちらの時間を過ごしている。前者が行動の時間であれば、今は沈思の時間になる。動と静と言ってもよいだろう。この両者を日常に組み込むことができれば素晴らしいと思っているが、それができないのでこういうことになっている。この2年間はその傾向が改善されたような気もするが。しかし、もう少し広く見てみると、これまでの2年間は行動の時間になっていて、ここで静の時間を持とうとしたとも考えられる。こちらに来る前のような自らが純に求めるものを模索する時間を欲したのかも知れない。
今日は朝からコロックへ。技術的、応用的要素の強いお話だったので、午前中だけになった。一つ印象に残ったことは、若い研究者のことである。アメリカでポスドクを終え、評価の高い雑誌にその成果を発表し、5年契約で研究している女性研究者が話していた。フランス語のコロックだが、訛りの強い英語で話していた。まだ何の蓄積もない研究者である。しかし、対象の捉え方が柔軟で、英語のせいもあるのか荒削りで、これからどのように化けて行くのかわからない漠としたエネルギーのようなものを感じていた。若さに可能性を求めるとしたならば、その若さを生かす環境、生き生きと研究できる環境が不可欠になる。しかし、それは結局のところ、どのような人間でも生き生きとして在り、自らを表現できる環境の中でしか生まれないような気がしている。科学は囚われのない見方がその基本になければならないが、最後は人間を取り巻く社会の問題に帰着しそうである。