シャンゼリゼとは Qu'est-ce que les " Champs Élysées " ? |
この日曜日、午後いっぱいアパルトマンに籠りのんびり過ごす。去年、親父の本棚にあったものをいくつか日本から持ち帰ったが、その中にあったこの本を取り出してゆっくり読む。
アベル・ボナール著 大塚幸男・矢野常有共譯
「友情論」 (白水社、昭和15年10月25日発行、一圓五十銭)
Abel Bonnard (1883-1968) " L’Amitié " (1928)
その中のこういう一節があり、はっとする。そう言えば、いつも使っているその言葉は一体どういう意味なの?という気付き方である。以前にもこういうことがあった。
「このやうに全く思い切つて論爭するのは友情の特権の一つであり、それどころか、かうした對照によつてしか生きない或る種の友情さへある。例へばメリメのスタンダールとの友情の如きがそれで、スタンダールはこの點について、極めて截然とした意見の相違ほど樂しいものはない、と述べてゐる。とはいへかうした相違がどの程度まで許されるかをはつきりさせることが大切である。いふまでもなく、これらの論爭のひろがりは、當事者たちが教養が深ければ深いほど、即ち自己の思想と情熱とを區別することに修練を經てゐればゐるほど大きい。してみれば、全く自由な精神の人々は、すべての事について論爭し得る筈であらう。これぞシャン=ゼリゼに於ける死者たちの樂しみであるが、しかし生ける人々にあつては、いかに賢い人々であらうとも、このやうな澄んだ境地に達しうる者はない」
ここでシャンゼリゼとはそもそもどういうことなのか、と立ち止まる。こういう時はギリシャに還らなければならいことになることはわかるようになってきた。
「エリュシオン」
Champs Élysées
ギリシャ神話によると、生前神々に愛された英雄達の魂が暮らす死後の楽園、安息所とある。この本の中にも次の文章がある。
「基督教徒の樂園は愛の樂園である。けれども 『古人』 のシャン=ゼリゼは友情の樂園である」
もう少し引用を。
「まことに或る人の力は、その人が孤獨に堪える仕方の自由さと、明朗さと、優雅さとによってのみ知られる。けれどこの孤獨も、あまりに易々と吾々がこれに達するならば、その價値がないであらう。初めのほどはあらゆる物を欲しがつた經驗を有することが必要なのである。或る人がその性質の進歩によつて、眞の交際としてはもはや自己との交際しか持たない境地に達した時と雖も、かういふ状態と人間嫌ひの気持ちとは、もう一度いふが、絶対に区別しなければならない。人間嫌ひはいら立ち且ついぢけるのに反し、孤獨な人は自己を擴げ且つ清める。人間嫌ひは人々の間に留つてゐながらも、人々に對してバリケードを築く。孤獨な人は高まるのであつて閉ぢこもりはしない。その魂は茨で守られた家ではなくて、高いところにはあるが常に開かれてゐる宮殿である。そして、誰も訪れて來る者がないとはいへ、この宮殿が人を歡待するものであることに變りはない。吾々とともに樂しみにやつて來るべきあのすばらしい殿様たちのために、毎夜、饗宴の支度がなされんことを。 ・・・・」
途中でお茶でもと思いソファから立ち上がろうとした時、ひらひらと1枚の紙切れが落ちてきた。
「公益奨券第伍期 民国三十年五月十五日開業」 とあり、番号が書かれてある。どうも中国の宝くじらしい。民国紀元は1912年に当たり、+1911年で西暦になるので、この券は1941年のものになる。
夜は日本からパリ訪問中の旧研究室メンバーと食事に出る。今日が最後の夜とのこと。昨日、一昨日と街は人で溢れていたようだ。充分に満足している様子であった。写真は、横に座った若いカップル。男性の手元に私もよく読んでいた雑誌 New Yorker があったので少し話してみる。彼はニューヨーク出身だが今はミュンヘンでビジネスマンのようなことをしているという。女性の方もアメリカ人かと聞いてみると、彼女は地元のドイツ人とのこと。わたしが哲学をやっていると何度言っても嘘だろうと言って信じてくれなかった。ヨーロッパはアメリカと比べるとどうかも尋ねてみたが、ヨーロッパが気に入っている様子であった。彼に記憶があるのかどうかわからないが、ニューヨークも80年代とは大分変っているのではないかとのこと。一度再訪してみたい不思議な気分になっていた。