なぜ書けないのか、再考 |
昨夜、課題を何とか終わらせることができた。
もちろん満足のいくものではない。
もう2年も続けてくると、自分の癖がよくわかってきた。
締切が目の前に来るまで書こういう気にならないことだ。
時間はあるのにその気にならず、苦しむことになるのだ。
例えば、今回のものは15ページ程度の作文である。
これに取り掛かる前は、単純計算で1日1ページ書けば2週間で終わると踏んでいた。
しかし、これができないのである。
全く筆が進まないのだ、その日がここに見えるまで。
これからメモワールもあることだし、もう諦めてはいるがなぜか考えてみた。
今回は二日ほどで仕上げたことになる。
まだまだ広げ深めたいところがあったが、当然のことながらそれはできなかった。
しかし、この二日間はその中に完全に入り込んでいた。
この状態に居続ければ、簡単に書くことができるのではないかという思いが浮かんでいた。
そこに居続けるということは、内に向かうということ。
そして、そこで集中することである。
それができないのだ。
わたしの内なるエネルギーは常にどこか別のところに拡散しようとしている。
本来的に、深まりを見せないような構造になっている。
前ブログで paul ailleurs とは無意識ながらよくも名付けたものである。
その拡散を集中に変えるための paul paris だったのか。
以前よりは内に向かうようにはなっているが、まだまだだ。
そこで結論が出た。
先日のニーチェではないが、書けないのは普段全く考えていないからではないのか。
注意がここではないどこかに向かっているからだろう。
そもそも反応する存在として存在していると考えると、よく理解できるのだが、、。
誰が言ったのか忘れたが、やはり締切が創造力を引き出すのかもしれない。
わたしにできそうなことは、締切前の内に向かう時間をできるだけ長くすることだろうか。
・
・
・
今、これとは少し違う解釈が浮かんできた。
それは、こういう前向きなものだ。
考えがまとまりを見せるまで待ちに待ち、それが熟したところで一気に書き上げている。
最後の最後まで何かが溜まってくるのを待っているのではないか。
もしそういう要素もあるとすれば、この長い苦しみは永遠に付いて回ることになる。
そこではその苦しみを減らそうとするのではなく、
それを受け入れることこそ学ばなければならないだろう。
当初思い描いていたものとは別物が現れるのを目撃する悦びの代償として・・・。
自分も見たこともないものが生まれいずる、これこそ創造ではないだろうか。
価値は度外視して、どこか違ったものを自然に生み出しているのが生物だ。
これこそ生物がこれまで進化の過程で見せてきた命の営みの基にあるものだろう。
そう考えると、日々生物本来の営みをしているに過ぎないことになる。
意識の上では、日々どこか違ったものを生み出さなければならないことになる。
生物はそもそも創造的なのだから。
気分が少し明るくなってきた。
今日もよく晴れ上がっている。
こういう時は、外に向かうエネルギーを抑える必要はないだろう。