学問の基礎は討論か、そして女性科学者の逞しさ |
今回は久しぶりの英語圏の会で、しかも生物学のテーマについて科学者、歴史家、哲学者などの異分野の研究者が集まって議論していたこともあり、いろいろと考えさせられることがあった。それぞれの発表は30分で、討論が15分という贅沢な構成だが、ほとんどの発表で挙手が続き(時には林のように)討論15分では足りないのである。もちろん、座を仕切る人は時間内に収めようとするが、なかには20分もの延長もあった。ビジネスライクにベルを鳴らし、型通りに進めることの方を重視する姿勢とは明らかに違う。上手い言葉が浮かばないが、今進んでいることに対しての共有感、思いやり、あるいは余裕のようなものを感じる。言ってみれば、人間が先に来ているということだろうか。質問に立つ人もいろいろである。年配でよぼよぼの発言をする人もいれば、素晴らしい頭脳を維持している人の発言もある。どの発言にも共通しているのは、そこを貫く芯(信)のようなものを感じることだろう。その人の命(生)がかかっているのがわかる。彼らの学問を支える深いところには、信仰とつながるものがあるのかもしれない、などという思いが湧いていた。そういう精神がぶつかり合う過程が学問に活力を与え、新しい方向性を生み出す支えになっているのだろう。
今回、初めての領域に顔を出してその全体を眺める時、それが恰も生命体であるかのような感触を得ることができた。そこに生き物がいて、それについて皆さんが語り合っているという印象である。そして、何人もの方が私の認識と共通することを語っていて、心を強くしていた。それは、これまで生物学を動かして来たのは哲学者(あるいは哲学的学者)であることが少なくなく、両者はこれからも相互に対話していかなければならない、ということであった。この対話がうまくいくためには、科学者が実利的なものだけではなく、その背後にある歴史や哲学に目を向ける必要があるだろう。一方、哲学者や歴史家の側も自らの領域に留まっているのではなく、科学に深く関わって来なければ実りあるものは生まれないと思われる。
ところで今回改めて強く印象付けられたことに、女性科学者の活躍がある。このことを最初に感じたのは、女性を学会場で見かけることも少なかった日本からアメリカに渡った時のことになる。視界が開けたような記憶がある。しかもそのアメリカでさえ女性解放が叫ばれていたのである。日本女性の置かれているイメージは決してよいものではなかった。ここしばらくは表現型が少し柔らかいフランスの研究者を見ていたせいか、イスラエル、あるいは英語圏の女性科学者の男性顔負けの逞しさに感動していた。昨日のエヴリン・フォックス・ケラーさんもそうだが、この会のオーガナイザーのエヴァ・ヤブロンカさんもそのお一人になる。今日の写真からも窺えるが、その言葉には素晴らしいエネルギーと迫力があり、時に強(こわ)さも感じさせるものがあった。コーヒー・ブレイクでは、楽しんでますか、などと気を使ってくれる優しい面もあるのだが、学問となると別人だ。前列でこちらを覗きこんでいる方もエルサレム大学教授で何人もの研究者を育てている。日本を遠くから見ると、まだまだchauvinistic な傾向があることを否定できない。女性研究者が真に活躍することにより、学問に幅と深みが生まれてくるような予感がしている。そうなるためには、相互に精神を開くという意識的な作業が求められるだろう。
今日は女性の話題のため最後になったが、上の写真でこちらを向いてエヴァさんの話を聞いている白髪の方が、先日ディナーに誘っていただき、エルサレムに導いていただいた Sam Schweber さんである。ボストン郊外にあるブランダイス大学で長く勤められ、現在は名誉教授をされている。イスラエルで悠々自適(学問三昧)のようである。