フランス語と人生を語り、メキシコに開く |
まだ肌寒いものの春である。昨年は全く感じなかった花粉だが、今年から日本とはひと月ほどのずれで飛んでいるのを感じるようになった。この世に天国はなさそうである。
今日も大学はスト中である。ところで語学学校で一緒だったメキシコの弁護士の方が、私のエクスポゼを聞きたいとのことで今日ご一緒していただいた (本日の写真の方になる)。学校のカフェで2時間ほど付き合っていただいた。と言っても、発表の方は1時間足らずで、あとは人生のお話になった。
発表は30分程度だが、内容についての質問だけではなく、たとえば声の調子が単調に過ぎるとかその場の雰囲気に合わせてジョークを入れることも考えてみては、という日本人にとっては一番苦手とするポイントを指摘していただいた。こういう助言は予想していなかっただけに参考になる。一言で言ってしまえば、文化の違い、生活観の違いということになるのだろうか。興味深く聞いていた。
彼は政府関係の仕事をしているようだが、半年ほどの休みを取っている。私が今の状況を説明し、自由な思索のためには仕事は障害になると言うと大きく笑っていたが、私の話には大枠で同意して次のように続けた。われわれは若い時から仕事に打ち込み、その中で必死に生きてきた。しかし、その外からものを見て、何のためにそれをやっているのか、人間が生きることとどのような関係があるのか、というようなことを考えることもなく来てしまった。手遅れになる前に、人生を振り返る時間を持ちたいと思ったという。結婚をし、小さな家から大きな家へ、さらに持つものもどんどん増えていくが、実はそれらはこの人生を生きるために真に必要なものではないのだ。
この人生に必要なものとは何なのだろうか。それを考えるのが人生かも知れない。彼はフランスの状況にも詳しいようで、定年後やることを見出せず、鬱になる人が少なくないというお話であった。仕事に打ち込み過ぎた反動なのかも知れない。それに対しては、ここでも触れている外の規範に頼る必要のない自らの内なるモーターを若い時から求める作業をしておかなければならないのだろう。それを可能にするのは、自らの心に素直に向き合う濁りのない目しかないのだ。この点にも彼は同意していた。
メキシコは信仰心の篤い国だという。私に付き合っていただいた後は、彼の妹のためにパンテオン近くの教会に祈りに行くという。精神的なものを大切にしている心を見る思いだった。今朝、先日倒れた友人の意識が戻ったという嬉しいニュースが飛び込んできた。嵐の前、落ち着いた午後を迎えている。
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今日のお話の中で、メキシコのお二人を紹介していただいたことを思い出した。お一人は、こちらの大物作家。
もうお一方は、2007年にフランスの国籍を取り、こちらで活躍している若手のオペラ歌手である。
ロランド・ヴィラゾン Rolando Villazón (né le 22 février 1972)