アブダル・マリク、あるいはその時まで待つ、その時は訪れる |
今朝は先日から始めた語学学校からスタート。2週間前の半分の人が入れ替わっていた。今日は街の言葉、郊外の言葉、若者の言葉がテーマ。私の周りでは聞かないものばかりで、ほとんどわからなかった。ただ、街に出たり、若者と話したり、文学などを理解しようとする時には必要になるのだろう。
その中で知ったアブダル・マリク。なかなか求めるところに進めない若者の心を鋭く歌っている。彼の中には哲学的な目もある。マイノリティからの視点が伝わる。外国にいるとそれがよくわかるようになる。しかし、母国に帰り、自分がマジョリティに属していると感じた途端にその感度が一気に落ちるのだ。
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クール終了後の待ち時間にある想いが浮かぶ。実は2年ほど前にこちらに来た時に、この学校に顔を出している。特にここで何かをしようというのでもなく、何気なく。そして今、その学校に通うことになっている。年末に1週間だけ通った学校はネットで最初に出てきたところだが、印象は悪くなくいずれ戻ることも考えていた。今回の直接のきっかけは以前にも触れたが、もう少しフランス語を勉強した方がよいのではという先生の助言で、その話の中に出てきたのがこの学校だったからに過ぎない。しかし、すぐに体が動き出していた。
こういう経過を思い出しながら、その人に最も相応しいタイミングがいずれ訪れるのでその時まで待つという心も必要なのではないか。そして、ぼんやりとでも思い描いていることはいずれ訪れることになる。逆に言うと、思い描かなければその時は訪れないのではないか。しかし、それは未来をただ待っていたり、その未来に向けて歩むのではなく、思い描いたことをその場で忘れ、今を存分に刈り取ることに集中しなければならないのだろう。なぜならそこに向かっていく時、今を刈り取ることができなくなり、そこに辿り着いた時には退屈と退廃が訪れるかもしれないからである。
そんな取り留めのない想いを抱きながら、昼下がりの光の中にいた。