哲学には時間と自由、そして表現 |
先週 Paris 7 の先生との雑談の中で私の今の状況について話になった時、哲学をやろうとした場合、あるいはもっと一般的に自由にものを考えようとする場合には仕事をすることが邪魔になるというようなことを言った。その先生はこの考えに完全に同意して、le temps と la liberté とわざわざ黒板に書いて、時間と自由が哲学には必要なのだと付け加えてくれた。さらに、フランスはリベルテの国なので、哲学にはよいのではないでしょうか、とまで。何気なく話しているのだろうが、私にとっては大きな意味を持って聞こえてきた。
この中の時間についてはわかるだろうが、自由というところがすぐにはピンと来ないかも知れない。こちらに来る前の数年の間に、仕事がわれわれに及ぼす目には見えない制約に気付き、そのもとでは考えることはできないという結論になった。仕事をしているとその中に入ってしまうので、その世界が自分のすべてになってしまうが、そこから出てみるとその世界は自分の頭のほんの一部にしか過ぎないいことがわかってくる。その時、自らの思考には強い縛りがかかっていたことにも気付くことになった。
さらに話をする中で、私のたどたどしいフランス語が気になったのか、医学博士でもあるこの先生から次のような助言をいただいた。それは、哲学は文系なので言葉が重要になる、特に上に進もうという場合には書いただけでは十分ではない、表現も陰影のあるものが求められ、同じ題材を扱っても科学のやり方とは異なってくるので少しトレーニングをした方がよいのではないか、という全く異論の余地のないもの。これまでは哲学の基礎をマスターすることに追われていたことが大きいが、それ以上に言葉が分かっていれば発音は少々おかしくてもよいなどという、アメリカにいる時の心構えと比較すると甘えとしか言いようのないものが堂々と顔を出していた。昨年末に1週間だけ語学学校に通ったが、それだけであった。そろそろ真剣に向かい合った方がよいのではないか、と先生のあたたかい言葉を聞きながら考えていた。
そして本日、語学学校に定期的に通うことにした。余り頻度を多くしても対応できないので、話すことに神経が向かうようにするために適度に刺激を貰うという意味で、隔週で週二日の予定にした。今や頭がはち切れそうになっているので、語学の方がどのようなことになるのか、関心を持ってこれからの様子を見てみたい。
夕方には、久しぶりに歯科にインプラントの最終段階の処理のために出かける。始めてから4カ月以上が経っているが、もう少しで終わる予定とのこと。帰りに見た柔らかい夕焼け雲は美しかった。