独創性が生まれる素地、あるいは遺伝的浮動、そしてシーウォル・ライトという科学者 |
先日、哲学は本を相手にあくまでも一人でやるもの、ラボでグループ研究するような代物ではないという教授の話を聞きながら、さらにいろいろなことが巡っていた。この考え方に基本的には同意している。その背景にはぼんやりとこのことが頭にあったのかも知れない。
ダーウィンの進化論の中にある進化の概念は早くから受け入れられていたが、その方法としての自然選択については多くの批判があった。それは今でも続いている。それは進化のメカニズムとしての自然選択は認められないという考えがあるということで、その最たるものは神や超自然的なるものがその過程を指揮しているとするインテリジェント・デザインだろう。しかし、科学の中でも自然選択の他にもいくつかのメカニズムが知られている。たとえば、遺伝的浮動と訳されている genetic drift や木村資生博士による遺伝子の中立進化論などはその代表例になる。このいずれもが、ダーウィンが考えていた生存や生殖に有利な性質が選択されることだけが進化のモーターになっているのではなく、ある目的のためではなく全くの偶然による変化の積み重ねでも進化が起こることを唱えている。
ここで遺伝的浮動が起きやすい状況、すなわち進化のスピードが上がる状況がいくつか知られている。そのいずれもが集団の数が少なくなる状況のもとでのことになる。一つはボトルネック効果 (bottleneck effect) で、病気や災害などで人口が激減した後にはそれ以前とは異なる特徴 (遺伝子の頻度) を持った集団が生まれる。それから創始者効果あるいは入植者効果 (founder effect) と言われる小さな集団が隔離される状況でも同様のことが見られる。つまり、集団の数が少なくなると大きな集団では見られなかった特徴が前面に出てくることがありうることを意味している。大集団の平均値から見た時に、非常にユニークな性質を持った集団が出てくることになる。
何か新しいことを生み出そうとした時には、それぞれを隔離しておいた方がよいのではないか、という考え方が成り立つ (もちろん、その反対のことも予想されるが、それはこのやり方の代償になるのだろうか)。日本でよくみられる大きなグループにまとめてやりましょうとするやり方は、効率よく事を進めようとする時には有効になるのだろうが、独創的なものを引き出そうとする時には向いていないのではないだろうか。最近でもオールジャパンなどという掛け声が聞こえてくるが、その代表例だろう。テクノロジーやその後に来るビジネスに重点が置かれてしまい、科学が置き去りにされている状況を示していると見ることもできる。小さいがユニークなグループが全国に割拠する状態を作り出す方策こそ、今求められているような気がする。
ところで、遺伝的浮動などの研究でダーウィン後の進化論の発展に重要な役割を果たしたシーウォル・ライトという遺伝学者がいる。
まず、99歳までしっかり生きた人であることに感動する。凍った道で滑り、骨盤骨折の合併症で亡くなっている。普通の人であれば、亡くなったことは残念だが99歳なのでおめでたいとも言えるのではないか、となるかもしれないが、彼の場合には目こそ弱っていたが知力の方に衰えはなく、夏にある国際学会を楽しみにし、亡くなる数時間前まで論文のディスカッションをしていたという。彼の4巻からなる2000ページを優に超える大著 "Evolution and the Genetics of Populations" (進化と集団遺伝学) は70歳後半から80歳代にかけて書かれたもの (1968年、1969年、1977年、1978年) で、最後の論文発表は亡くなる2か月前の1988年1月である。冬の散策に出ていなければ、まだまだ活力を保っていたと想像される。
彼の家系はシャルルマーニュ治世の8-9世紀にまで遡ることができることを知ると、遺伝学に興味を持つことになったのも理解できる。マサチューセッツ州メルローズに生まれたが、3歳の時に父親フィリップがイリノイ州のロンバード大学に職を得たので移り住む。まだ学校に行く前の7歳の時には "The Wonders of Nature" というパンフレットを書いている。早熟の少年だったようだ。父親のフィリップも polymath で大学では数学、天文学、経済学、測量学、体育、英作文を教え、詩や音楽を愛していた。そのためか、シーウォルには詩の領域に入るように勧めたが、彼は自然科学を選び父親を落胆させた。それは大学でアメリカの女性で初めて理学博士をシカゴ大学からもらっていたウィルヘルミン・キーという先生の影響が大きいと言われている。
大学卒業後、イリノイ大学でフェローシップをもらい、この間ハーバード大学のウイリアム・キャスルのもとでモルモットの毛の色について研究し、26歳の時に博士号を得る。ここで inbreeding (近親交配) にも研究を進めるが、それは両親がいとこ同士の結婚だったことが原因ではないかと考えている人もいる。それから10年間は同じテーマのもと農務省で、37歳から65歳の定年まではシカゴ大学、さらにその後の5年間はウィスコンシン州立大学で研究を続けた。キャリア後半には哲学にも興味を持ち、生物学についての哲学論文も物しているという。
以前ハンモックで、やはり進化学者で100歳の人生を全うしたエルンスト・マイヤーについて触れたことがあるが、そのことを思い出していた。こちらの方は定年後に生涯に出した本の半分以上 (14/25) を出版し、200編もの論文を書いているという圧倒的な活力を示している。お二人ともただただ素晴らしいと言う他はない。