大学改革、そして哲学研究とは |
昨日は午後から街に出てホテルのカフェで専門に関係する本を読み進む。これまでに溜まっているものがいろいろなところで繋がってくるのを感じる。この感じはなかなかよいもので、最終的に望んでいるのは溜まっているものすべてがこのような繋がりを見せてくれることになるのだろう。まだほんの感触という程度にしか過ぎない。
今朝は先週ストでなくなったクールへ。今日は学生さんが待っている。定刻に先生は現れたが、どうもまだスト中のようでその意図を説明し始めた。完全に理解できたわけではないが、一つには今度の大学改革で学長の権限が増し、評価のやり方が変わってくるのではないか。疑問というよりも、そう確信しているようだ。そしてその判断は正しいのだろう。二つ目には教育者と研究者を分断する意図が見られるとのことで、それは望んでいないようである。三つ目には研究テーマ、例えばこれまでは全く自由にテーズのテーマを選ぶことができた。exotique なものでも bizarre なものでも、という言葉を使っていたが、それが難しくなるのではないか。ある型 (maquette) にはまったものが横行するようになるのではないか、という恐れだろう。そして最後にはそうすることにより、ソルボンヌというイメージが変わっていくことを危惧しているという見方である。
こちらに来て嬉しく感じているのは、まだ mondialisation には完全に侵されていない大学と教育に触れることができていることだろう。この教授の見方にはほぼ賛成していた。そして、その考えに基づいて、今日も講義をしないという行動に出ている。しかもそこには肩に力の入った姿勢が全く感じられない。こう考えている、だからこうするのだ、という頭から体に移るところが実に滑らかで自然なのである。もちろんそうしない人もいるので個人の問題はあるのだろうが、そこには目に見えない歴史の積み重ねがあるような気がして、私は好ましく思っていた。われわれは頭と体を持っているので、単に体育系だけで体を使うのではなく、このようなつながりで体を生かしていくことが必要になるのではないだろうか。そんな思いで話を聞いていた。
一応の説明が終わった後は、学生さんとの質疑に移って行った。私にとっては、この学生さんと先生のやりとりを掴むが一番難しいところである。これは日常の表現と学生さんの意識を完全に理解するところまで行かないと不可能ではないか、と最近ではその時が来ることを信じて諦めているのだが、、。まず出ていた話は、例えばこれから先のキャリアのこと。どのようなコース (テーズの具体的なやり方など) を取って社会に出て、生き延びて行くのか、という具体的なこと。それから大学の哲学教授と哲学者の関係について質問している学生がいた。スペイン系のアクセントがあったが、やはりヨーロッパ人である。東洋人に感じる意識のずれはほとんど感じない。彼の印象では、大学の哲学は科学研究のようで自分の抱いていた哲学とは少し違うというニュアンスであったが、これは私の印象と完全に一致する。
大学に、しかも哲学科に哲学者がいるという保証など全くない、というのが今の私の考えになっている。まず教育をする場合には過去の蓄積を教えることになり、そこには哲学特有のやり方はないからではないだろうか。研究の方はまだよくわからないが、おそらく他の研究領域と変わることなく、狭い領域の中でのお話に終始することになっているのではないかと想像している。そうしないと専門職としては成り立たない。大学では哲学者の育成ではなく、哲学研究者の養成が目的になっているのだろう。もし全的なるものを理解するのが哲学だとすれば、その専門からの大きな飛躍が必要になる。しかし、最初から哲学の専門に留まったままの状態では非常に難しいのではないか、とも想像される。逆に言うと、どんな領域にいる人であれ、そのような精神の運動ができる人は哲学者になることができるということにもなりそうだ。
最近は、哲学の領域でも自然科学の現場のように白衣を着た人が仕事をする "Labo" という言葉を使い、共同で何かをやりましょうという動きもあるとのお話。この教授にとっての哲学とは、あくまでも自らの求めるテーマについて本を相手に一人でやるもの (travailler tout seul) であり、それによって独自の考え (pensée unique) を導き出すものと捉えている様子であった。この点に関しては基本的には同意しているが、今生きている哲学者や科学者の考えを直接聞くという過程を入れることを考えてもよいのではないだろうか。もちろん、書かれたものにすべてが表わされているという考え方もありうるが、科学者としての経験からだろうか、直接の接触には文字からだけでは得られないものがあることを知っているので、最終的にそれを生かすかどうかは別として無駄な営みではないように思っているのだが、、。
1時間ほどの講義ではないお話を聞きながら、講義からは生まれない思索が巡っていた。