パリ生活1年に想う |
まだ時差ぼけのようだ。思い起こせば、昨年の今日、パリに着いて安ホテルのコンシェルジュの言葉に疲れを癒されたことや涼しいパリの秋を味わいながらカフェでスピノザについてまとめていたことを思い出す。あれから1年。早いようだが、中味はぎっしり詰まった1年だった。始める前は、この長さは日本で通っていた語学学校の春季、秋季、冬季に当るので、こんな時間で一体何ができるのだろうかと疑問に思っていた。しかし、実際に始めてみると意外にいろいろなことがあり、自分の見方も変わってきているように思う。これまで使われていなかった脳の部分が揉み解されているように感じる。その部分とこれまで使ってきた部分が予想もしないような結びつきをしてくれれば素晴らしいのだが、などと夢想している。
想えば、昨年の9月。来る前には考えてもいなかった目の前に見える高い壁。これまでの蓄えで、その壁を乗り越えることができるのか。しかし乗り越えなければならない。本当に手探りで進んでいった。必死にやっていたようだ。アパルトマンの床に散らばっている本を眺めてみたが、こんなものまで買っていたのかというものが多く、この間の必死さが伝わってくる。今終ったばかりで何ともいえないが、将来平和な時間が訪れた時、この一年はどのように写るのだろうか。あるいは、先日瀬戸内寂聴氏の講演を聴いたというN氏から聞いた「休むことができるのはあの世に行ってからですよ」ということになるのだろうか。
昨日、カフェで手帳のカレンダーを眺めながらこれからの1年をぼんやりと想っていたが、そこにある1年は本当に短いという印象だった。しかし、実際に大学生活を始めると結構なことが起こり、これまでの1年とは違う抵抗感が訪れるのだろう。そして、もしこの秋から1年目を始めると考えただけでウンザリしていた。やはり事を始めるのは去年でなければならなかった、と自ら納得していた。
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dimanche 30 août 2015
上のタイトルに肖れば、「8年目のパリに想う」 となるだろう。しかし、今はまだ総括をする気分ではない。総括に至る途中にあるからだ。
パリ1年の後、物理的には短いと思っていた中で起こった変化を確実に感じ取っていたようだ。思うように理解が進まないもどかしさを感じることで、これまでには使われていなかった部分が意外に大きいことに気付くことになった。そして、最初の1年ではその部分を解きほぐし得ていないという感覚があった。
あれから7年の時が流れたことになる。当時とは比べものにならないくらいに使われている部分が広がっていると感じている。しかし、それにしてもまだ入り口に立ったという感覚にしか過ぎない。
当時から床に本を散らかしていたとは知らなかった。その本も収拾が付かなくなるくらいに酷い状態になっている。総括に当たり、それらをひっくり返したいとは思っているのだが、なかなか体が動かない。このひっくり返しは、思わぬ繋がりを誘発してくれる貴重な作業である。
7年後の今、パリの学生生活の総決算をしようとしている。果たして、何かを纏めることができるのだろうか。今の感覚では、譬え纏まったにしてもそれは一つの出発点にしか過ぎないということである。ただ、この作業により新たな課題が見えてくるとすれば、総括には大きな意味があったことになる。
このところ肌寒い日が続いていたが、今日は晴れ上がり汗ばむ日和である。今回のような総まとめの作業をすることは、これからは少ないと思われる。そう思うと、一日一日が貴重なものに思えてくる昼下がりである。