パリの空の下、倫理を語る |
日本から学会出席のためパリに立ち寄ったI氏との会食があった。I氏とはアメリカ以来の付き合いになるので、言ってみれば研究生活のほとんどの時期を一緒に過ごしたことになる。オルセー美術館で待ち合わせた後、近くのカフェでワイン片手に話し始め、最後はエッフェル塔のレストランという旅行者気分を味わいながらのソワレとなった。話はいきなり哲学の話題になった。彼は日頃から医療の最前線の問題についての解答を求められているようで、特に倫理の問題を考える場合、日本にはその基本となる根のようなもの(哲学?)が欠けていることを痛感していた。それがないために国としての方針を決めようとした場合、各自がそれぞれの意見を言うだけで、その確固たる根拠を示すことができない状態だという。したがって、議論する機会は増えてもなかなか方針が決まらず何年も経過してしまうようだ。さらに、一旦決めた方針を何の理由もなく(より正確には、国の経済的な理由により)その方針が変えられたにもかかわらず、倫理基準を決めた側は何の反論もしないということもあったという。つまり、はっきりとした哲学(論理的な基準)に基づき方針を決めているのではなく、成り行きでどうにでもなるあやふやな論理で溢れているというのである。しかも、この傾向はこの分野に限ったことではなく、日本に蔓延している現象だと彼は見ていた。
これらのお話は私が外から見ている印象と一致したのでよく理解できた。倫理の分野に限ってみても、現状に追いつくところまで成熟していないということになるのだろうか。欧米では宗教が一つの軸になっているようだが、日本ではその軸も弱く説得力がないという。それでは力強い、説得力のある哲学が生まれてくるためにはどうすればよいのだろうか。これは先日話題にした文化としての科学という問題、科学精神の問題とも重なり、日常の積みかさねを経た歴史が必要でそう簡単に望む姿は現れないように思われる。しかし、目の前に問題を抱えているご当人にとっては、パリでのんびりなんかしていないで、少しは真剣にこのような具体的な問題について哲学してほしい、それでなければ哲学の意味はないという立場になるのは必然だろう。フランスの奥深くに入りつつある身としては、現実から少し離れての瞑想に時間をいただきたいと考えていたのだが、、、、。いずれにしてもこの問題は重い問題なので、じっくり考えていくに値するテーマになりそうである。
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13 juin 2015
哲学は現場の役に立たなければならないのか。おそらく、そうだろう。ただ、どのレベルでの貢献を考えるのかが問題になるだろう。
臨床の現場で求められる倫理の基準を考える時に参考になるような哲学を打ち立てること。そうしなければ、役に立ったことにならないのか。あるいは、現場に直接的な貢献はないかもしれないが、思考の幅を広げ、深めるような考えを出すこと。
科学や医学の中に存在するが、専門家が問い掛けることのない問題について考えること。そのことにより、われわれの精神世界が広がるという貢献もあるのではないか。
後者の効用が認められるためには、受け取る側がそのような見方を持っていなければならない。身の回りの目に見える世界にしか注意が向かわない時、その物質世界に対する性急な解しか求めない。突き詰めれば、これは文化の問題になる。
そのような精神の在り方を望ましいものと考えるのかどうか。形而上学のない世界は如何に貧しいものであるかを感じるようになった身としては、答えはウイである。これもこちらでの時間の影響になるのだろう。