米・仏会議で日・仏を語る |
昨日はパリ大学の研究所IHPSTで行われたシンポジウムに参加してきた。ピッツバーグ大学とパリ大学の共同ワークショップで、今回が最初のようである。テーマを大雑把に言えば、生物学・心理学の哲学だろうか(プログラムはこちらです)。
このワークショップで思わぬ出会いがあった。日本からこちらに3ヶ月の予定で滞在されている科学史家の伊藤憲二さん(総合研究大学院大学)と初めてお会いしてデジュネをともにしながら、この分野のお話を伺うことができた。私の感触もそうであったが、日本では科学哲学や科学史と実際の科学との接触は極めて稀とのこと。この両者が相互に全く関係なく仕事を進めていることになるが、お互いにとって不幸な状況に見える。何とかならないものだろうか。ただ、日本で科学を対象に研究している文系の人口もそれほど多くないようなお話だったので、どうしてもサロン的にならざるを得ないのかもしれない。誤解であればよいのだが、、。今回私が参加したセッションでは半分くらいは科学者が話をしていた。科学者の中にはそのテーマに哲学的な含みを持っている人がいたり、哲学的問に答えるために実験をしているのではないかと思われる人もいたりして興味深いものがあった。
話がパリのことに及ぶと、この分野の研究者の集合の度合い、したがって種々の研究会やセミナーの充実振りはひょっとすると世界でパリの他にはないのではないかという指摘があった。私のレベルではまだそこまで目は行っていないが、研究者にとっては有り難い環境のようである。また、今回の発表者の中にはピッツバーグ大学で研究されている日本人の若手、石田洋一さんが含まれていたが、残念ながら2日目には参加できずお話する機会は得られなかった。
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ところで、昨日発表したアメリカの大学教授の考えに共鳴するところがあった。それは学生に知識を問う試験をするよりは、teaching assistantのような形で教える経験をさせる方が身に付く知識を得られるのではないかとの持論。私などは学生の立場としてほぼ完全に同意していた。もちろんこの他に論文は準備するのだが。
それから以前にも感じたことではあるが、アメリカの学者(おそらくアメリカ人に共通か)は声が大きい。国が大きいためにそうなるのだろうか。相手がどのような人なのか想像もできない国に住んでいると、想定しなければならない範囲が大きくなるためかもしれない。機微を排した機械的な響きがする。日本などはフランスにより近いということだろう。ただアメリカナイズされてくると声は大きくなる傾向にあるようだ。
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5 juin 2015
パリの研究環境についての記載がある。当時は評価のしようもなかったが、確かにいろいろな研究会の案内が週に何度も送られてくる。その気になれば、幅広く学ぶこともできる。これまでは自らの領域以外のところで羽を伸ばしていたので、その気にはならなかった。そして、今は論文を書いているところである。これが終わり、今度は自らの領域の中で羽を伸ばすことができるようになることを願っている。