私はどこに? |
木田元氏の「ハイデガーの思想」という解説書をパラパラとやっている時、哲学発祥のギリシャという言葉が出てきた。そしてギリシャを想っている時、日本からギリシャを眺めていた。本来であれば南の方を見なければならないはずなのだが、、。
ネットで世界地図を見ている時、今自分のいるところが東京なのかパリなのかわからなくなることがある。地図の上ではパリにいるという感じがしないということである。昔アメリカにいた時のように日本を離れて遠くにいるという精神的な気負い・緊張感のようなものが全くないのである。まだ宙に浮いたような感覚で生活しているようだ。
ただ、自分を意識的に日本に置いてこちらを見てみると、随分と遠くで暮らしているなという感慨が沸いてくるから不思議だ。自分では日本に居ながらにしてパリの生活を味わっているという感覚なのだが、日本にいる人にとってみると地球の裏側で何やらやっているようだとしか見えないだろうと思い知った。当然と言えば当然なのだが、自分にとっては不思議な感覚である。
日本に居ながらにしてのパリ生活だが、この間に降りかかってきたフランス語の量は相当なものになるだろう。来た当初に感じた無理やり口を開けさせられフランス語を流し込まれているような印象はなくなっているが、実質的には何も変わっていないどころか、むしろその程度は増しているような気もする。目に見えない何かが変化し始めていると考えるのが常識的だろう。
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1 juin 2015
ここで指摘されている 「頭の中は日本」 という感覚は長く続いた。今でもどこかにそういうところがある。より正確には、日本とフランスが溶け合い、混然としたところにいるという感覚になってきた。どこかに根を張っているよりは、世界が広がって見える。
若き日にアメリカから戻り、2年ほどは問題がなかったが、それを過ぎると外の世界が遠くなった。地理的にも世界とは隔離されているし、日本の情報は極端に日本に限られていたからである。
以前に 「日本は屋根のかかったドーム球場」 と形容したことがあるが、家の中、長屋の話に終始する。その状態でも十分に生活できるし、日本ではそうした方が生きやすいところもある。ただ、一見快適に見えるその世界で本当に満足していたのだろうか。おそらく、日本で展開されていた精神世界の幅に狭さを感じたのではないか。そして、多様なものに触れることのできる空間を心の底で求めていたような気がする。