昨日のブログを再読、自らの歩みと重ねる |
こちらに来てからは目覚めた時がその日の始まりになっている。睡眠時間を考えなくなっているから少々危ない。今朝起きて、昨日の長い文章を読み直す。
まず、哲学は哲学以外の知の後に来るという点だが、私のような立場の人間にはよくわかる。それから哲学には歴史はなく、いつも同じ営みだというアルチュセールさんの見方も理解できる。例えば、パスカルのパンセの編纂でも有名なブランシュヴィックさんは、哲学とは解決済みの問題の科学であると言っている。ある問題に気付いた時、譬え偉大な哲学者がすでに挑戦していたとしてもその問いに向かい合うことが許される。ここが科学と大きく違う点になるだろう。そして、時代とともに新しい問題は出てくるが、存在し続ける問があるということも意味しているのだろう。
ところで、アルチュセールさんは変わらぬ営みとしての哲学に二つの立場があると言っていた。第一は、真理に関する理論的な知と価値に関する実践的な知を求めるもの。そして第二は、個人の変容、根源的な改宗、存在の動転、あるいは芸術的創造性などの行動に繋がるもので、学校での学習ではなく、人から人へと自由に語られるものである。
これを読みながら自らを振り返ってみると、この道に入る時にそれまで考えられなかったような変容が起こっていたのが見えてくる。その変容に伴い体が動かされ、体が動くことによりさらに変容が進行するという循環が起こっていた。このように意識的に生きたことはそれまでなかったかもしれない。これは二番目の範疇に入るのだろう。この哲学は人から人へ語られるものだというところは妙に共感を持って読んだ。先日の日本での発表がどこかで重なるように感じたのかもしれない。
一方で、それまでの科学における歩みを考え直し、そこに意味付けをしてみたいという欲求も生れていた。これは第一の哲学、特に理論的な知に関するものに当て嵌まりそうである。そして、理論的な知の哲学への欲求が現実のものになるように自らの中で起こっていた変容が強く後押ししていたように感じる。つまり、私の中では、アルチュセールさんの二つの立場がそれぞれ独立にあるのではなく、相互に深く絡み合ってあるように見えるのである。個人の生と関係がないように見える哲学に魅力を感じない理由がそこにある。あるいは、生と関係のない哲学は存在しないのかもしれない。