「情報操作」 という言葉に込められた欺瞞 |
今回の東京の会では、生物学における情報をテーマに話をさせていただいた。英語で information というが、この言葉はラテン語の動詞 informare に由来する。その意味するところを振り返ると、情報に対するわれわれの態度は大きく変わるのではないだろうか。その意味とは、「心に形を与える、教える、導く」 という行いである。つまり、情報とはそもそも中立的な言葉ではなく、人をある方向に導く意図を持ったものだったのである。情報操作という言葉には大きな欺瞞がある。あたかも操作されていない情報があるかのように思わせるからである。
人間はある枠組み(理論や仮説)がないとものを理解することができない。人が何かを理解したと感じる時、それはすでにその枠組みの中にある。が、そのことに気付かないことがほとんどである。科学には科学の枠組みがあり、それなしには何事も進まない。科学者(あるいは、あらゆる専門家)がしばしば自信たっぷりに話をできるのも、気付くか気付かないかは別にしてそれぞれの枠組みに留まっているからだろう。われわれの周りに溢れる情報を目にする時、知らない間に情報を流す側の枠組みの中にいることは忘れてしまう危険性がある。informare に込められているものは、われわれの目の上の鱗を落としてくれる。