言葉の奥に入ると |
« Celui qui ne dispose pas des deux tiers de sa journée pour lui-même est un esclave »
Friedrich Nietzsche, Humain, trop humain
「一日の三分の二を自分自身のために使わない者は奴隷である」
フリードリヒ・ニーチェ 『人間的な、あまりに人間的な』
現代において奴隷の身分から抜け出るのは大変である。そのチャンスは人生の最終局面に用意されているのだろう。ただ、われわれが奴隷の状態にあるとの認識がなければ、そのことに気付かないかもしれない。
知とは単に何かを頭に詰め込むのではない。ものを味わい食べるというような体を使って取り込むことに由来したようだ。まさに体が伴わなければ身につかないということになる。
先日の世界哲学デーでのこと。好奇心のことを " Éros logique " と形容している人がいた。ものごとに対する愛から好奇心は生れるのだろう。しかし、これも単に頭ではなく体が関わる愛であり、さりながらそれが理性に支えられているというイメージがこの表現から湧いてくる。妙に感心して聞いていた。
コンピュテーション(computation)という言葉がある。どこか無機質なイメージがあり、アルゴリズムなどという専門用語を連想させ、これまで意識の外にあった。ところが今日読んだ本によると、こうなる。この言葉はラテン語の computare に由来し、com は共に(together)、putare は熟考する(contemplate/consider)を意味する。つまり、異なった部分や見方を寄せ集めて一つの全体的なものや反応を作り出すという意味を内に秘めている。この言葉との距離が一気に近くなった。