マルクス・アウレリウス共振 " Pensées pour moi-même " de Marc Aurèle |
こちらに来る前に買ったことになっている哲人皇帝の手になるこの本を速く読む。
速く読むということを別の言い方をすれば、そこから抜け出るために読む、となる。
読み終えるために読むのに対して、これまでの読みはそこ(底)に沈んで言葉を味わうものであった。
この組み合わせが理想だろうか。
マルクス・アウレーリウス『自省録』
まずこの言葉が目に付く。
「内なる指導理性(ト・ヘーゲモニコン)」
彼の底に流れるもので、人間が目指すべきものか。
こんな定義がされているところがある。
「自ら覚醒し、方向を転じ、欲するがままに自己を形成し、あらゆる出来事をして
自己の欲するがままの様相をとらしむることのできるもの」
この場で言うところの「内なるモーター」と繋がるものかもしれない。
自分の内を見よ。
内にこそ善の泉があり、この泉は掘り進めさえすればいつも湧き出るだろう。
それには善意と誠実と慎みをもって、自由の方向へと自己を守り続ければよいのだ。
われわれはいずれ死ぬ。
エピクテトスも言っている。
「君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない」
死につつある存在なのだ。
死んで元素に分解されるのだ。
生きている時間など束の間にしか過ぎない。
万物は繰り返す。
長く生きようが同じものを繰り返し見るだけなのだ。
いつ死のうが大差ない。
われわれが失うのは、現在しかないからだ。
そこで求めてどうしようというのか。
いずれすべてを忘れ、そしてすべては忘れられてしまうのだ。
自然の中の隠れ家を求める気持ちもわかる。
しかし、内なる住処を建てることができるならば、そこに還ればよいのだ。
そこで安寧な生活ができるだろう。
そしてその内なるものに従って、求めず、善く、単純に生きること。
彼はこう言っている。
「単純な、善良な、純粋な、品位のある、飾り気のない人間。
正義の友であり、神を敬い、好意にみち、愛情に富み、自己の義務を雄々しくおこなう人間。
そういう人間に自己を保て。
哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ」
ジェームズ・ラブロックのガイア理論を思わせるところもある。
「宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただひとつの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮かべよ」
それから「われわれの内にある自然」という表現も。
内なる指導理性が自然の求めるところと一致しなければならない、ということか。
われわれを取り巻く自然の声に耳を傾け、そこから指導理性を築き上げよ、ということか。
「すなお」とは、宇宙の自然から割り当てられるものをことごとく進んで受け入れること、ともある。
「健全なる」視覚、聴覚、嗅覚、胃の腑、そして精神はあらゆるものに対して用意がなくてはならない。
「一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものは何であろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある」
5年前の嬉しい記事が見つかった。
マルクス・アウレリウス MARC AURELE SE MET A ECRIRE A 50 ANS (2005-10-09)