アン・マリー・ムーランさんを聞く Anne Marie Moulin parle de l'immunité |
このところセミナーが続いている。今回の演者は医者で哲学者のアン・マリ―・ムーランさん。エジプトのカイロで医学史の研究と公衆衛生の仕事をされている。演題は「自己と非自己」で、免疫学が対象になっている。ムーランさんについては以前にも触れているが、個人的な思い入れがある。彼女が20年前に書いた Le dernier langage de la médecine という免疫学を歴史的、哲学的な視点から解析した今や古典になっている本について、マスターの時に小論文を書いていたからである。
彼女の当初のモチベーションはそれまで余りやられていなかった免疫学の歴史をやることで、それが上の本になったという。それからの20年で起こった免疫学における視点の変化から始まり、免疫学における主要な概念、例えば演題にもなっている自己と非自己、寛容、自己免疫などが取り上げられた。マクファーレン・バーネットが唱えたクローン選択説が免疫学のパラダイムになっているが、この説によると免疫系は自己を構成する成分とは反応しないが(寛容)、病原体などの非自己に対しては攻撃するとされる。この機能が障害され、寛容が崩れると自己免疫病になり、本来の防御機能がなくなると感染症などで亡くなることもある。ただ、この原則に合わない現象も観察されている。例えば、寛容とは言いながら、自己と反応する抗体は存在する上、われわれの体を構成する細胞の10倍にも及ぶ細菌(非自己)が腸内に生息し、一つの臓器とさえ言う人まで現れている。これらがクローン選択説の例外なのか、あるいは別の法則に基づいている現象なのか。問題になるだろう。
前日のアラン・ラブさんのテーマがここでも問題になる。それは免疫学についての総合的な理論が必要なのか、そしてそれは可能なのか。別の言い方をすれば、これまでのようにそれぞれの部分についての解析を続ける中で問を出し答(あるいは新たな問)を求めるだけでよいのかという問題である。これは答えの分かれるところかもしれないが、ムーランさんは理論の必要性に肯定的な考えを持っているような印象を持った。ただ、今のように忙しい状況に置かれている現場の研究者が総合的な説など考える暇はないだろうし、それをやっても研究者として生きていけないだろう。ある意味哲学的にも見えるこの営みをやる必要があるとした場合、それができるのはダーウィンがそうであったように生活に困らない人になるだろう。ラブさんの結論とは若干異なるが、あらゆる分野でダーウィンのような試みをする人が現れるのを見てみたい気分になっていた。
終わった後、いくつか細かいことを教えていただき、これからも連絡を取り合うことを改めて確認した。雰囲気のよい会であった。彼女は最近医者と権力の関係について書いている。
Le médecin du prince : Voyage à travers les cultures
(Odile Jacob ; 21 janvier 2010)
この本についてのインタビューはこちらから見ることができる。このインタビューの冒頭で彼女は次のような興味深いことを話している。
「ヒポクラテスの時代から医者は旅に出る必要があった。
それは生活のためもあったが、人間の多様性を観察するためであった」
医療の原点には人間があったことを改めて思い知らせてくれる言葉である。そう言えば、ヒポクラテスがよく旅をしていることに驚いた記憶が蘇ってきた。
ヒポクラテスの観察、あるいは "Poétiques du corps" de Jackie Pigeaud (2008-09-30)