ペーター・スローターダイクさん、ヨーロッパの今を語る |
今朝方、明るかった空が一瞬にして暗転し、雷雨となった。
早速バルコンでその景色を味わう。
しばらくするといつものように光が戻ってきた。
昨日の新しい Le Point のドイツ特集でペーター・スローターダイクさんに再会した。昨年10月に初めて紹介されて以来、今年の初めに2度取り上げている(2月13日、15日)。以下にインタビューの要旨を。
ドイツは貨幣危機が再来するのではないかという恐怖を遺伝子の中に持っています。それは、例えば軍の不作為による士気の低下 (la démoralisation) やオランダに引き籠って木を切り鳥籠を作ることになる皇帝の話ではありません(ヴィルヘルム2世のことか)。これらのことは国が生命を取り戻せば許されるのです。しかし、1922-3年、ドイツはハイパーインフレにやられました。究極の贋金づくり (le faux-monnayeur) の正体が顔を出したのです。
貨幣の価値が下がり、それが大衆のニヒリズムを生み出し、ヒトラーの国家社会主義や激しい反国家主義が現れます。普通であれば小市民は日常の具体的な生活を立て直さなければならないのでニヒリストにはならないのですが、すべてが水泡に帰すことがわかり、平価切り下げは大部分のドイツ人を虚無主義の哲学者に変えてしまいました。今日、ドイツが貨幣価値の監視人の役に固執するのはこの記憶のためなのです。
それは火傷をした記憶を思い出す子供の態度に近いと思います。ドイツが他の国より立派だということではありません。一度インフレのワクチンをうつと、もうこの混乱には関わることができなくなります。貨幣価値に関しては、われわれはローマ法王よりもさらにカトリック的なのです。しかし、ヨーロッパの仲間、特にフランスは悪魔のインフレ処方箋を出せば事足れりと考えています。
現在の世界経済は、自由原理主義と国家社会主義的原理主義の間の歴史的妥協の上に成り立っています。この「資本主義的半社会主義」とでも言うべきシステムにより税務システムに広く配分可能な富を築くことができます。
結局のところ、現在の政治は応用数学の分野になりました。レーニンは社会の富すべてを押収しなければなりませんでしたが、少ないものの100%はやはり少ないということを発見するだけでした。西ヨーロッパの社会民主主義は別の数学を展開しました。たくさんあるものの50%は沢山であることを発見したのです。根本的には、20世紀のイデオロギーの戦いはこの二つのやり方の対立と見ることができます。
ドイツの貨幣・財政政策はヨーロッパを脅かす新たなナショナリズムなどではありません。ヨーロッパの最初の危機に直面し、分裂に向かうのか(その可能性は極めて少ないだろうが)、逆にヨーロッパの真の良心が生まれるのかという問題です。
この50年、私たちヨーロッパの核である国の市民はパスポートには表れない二つの国籍を持っていました。一つは混乱はあるものの確かに存在するヨーロッパの国籍で、もう一つはヨーロッパの協力体制により無効にできる想像上の伝統的な国家の国籍です。私たちは「祖国」という形ばかりの檻の中に閉じ込められ生きてきました。しかし、その実態は社会の信頼によるネットワークにしか過ぎないのです。
この危機の中で初めて、首尾一貫性のある共有されるやり方で対処することが強要されるヨーロッパの統一性が現れるのです。連帯のシステムが国家的なものであり続ける限り、ヨーロッパは抽象的なものに止まらざるを得ないでしょう。ヨーロッパ市民が出現するのは、国民国家の枠を超えてすべての人がすべての人のために犠牲を払う時なのです。
私にとっての国家は「ストレスの統一体」、すなわち、共通の心配事に集団で対処することができる個人の集合です。国家は地域の伝統に対する愛着から自然発生します。これに対して、ナショナリズムは自然発生しません。オーストリアの作家カール・クラウス (Karl Kraus, 28 avril 1874 - 12 juin 1936) が「黒魔術によるヨーロッパの没落」で言ったように、ナショナリズムはジャーナリズムの息子です。報道媒体がそれを広めることになったのです。再び脅威があるとすればまさにここで、国家主義的マスコミの力と大部分のヨーロッパ人が母国語の牢獄に閉じ込められていることにあります。
政治心理学的に言えば、私たちはまだ伝統に囚われたままです。多くのヨーロッパ人はいまだに真の連帯のシステムは古くからある国家に根差すと考えています。しかし、私たちは50年の間に現実的なヨーロッパの生存システムを作り上げたのです。想像以上にヨーロッパの国々は同化していると考えています。
ドイツの特殊性は16の主権を持った政府から成る分離不能な連邦のようなものであることです。丁度、フランスの「唯一にして分割不能な」共和制と共通するところがあります。地方の共同体では富める者が貧しい者に犠牲を払っています。進歩主義者はこの水平方向の連帯が国家内の地域だけではなく、EUのメンバーの間でも実践されるべきだと考えています。これはヨーロッパ的なよいやり方を獲得する新しいステップになるでしょう。
ここで忘れてはならないのは、ヨーロッパは帝国ではなく、大きなスケールで広がる和気藹々としたところのある (la convivialité) 驚くべき形態であるということです。残念ながらこの考えはマスコミの大勢にはなっていません。ここ数カ月、ドイツの大衆紙がわれわれの金で昼寝を貪っているとして南の国に対する敵意を煽っています。
最後に、ドイツ軍の海外での活動について聞かれ、こう答えている。
政治的大義のために死ぬ国に挙げられることは私たちにとって新しい特権であると考えています。大衆はこれが何のための死なのかをよく理解していません。私たちの兵士はドイツがその負債を支払う用意があることを示すために死んでいると私は思っています。
ところで、この号では最近見たばかりの映画 " La Tête en friche " も好意的に紹介されていた。