滞在許可証、あるいは再びのエピクロス |
Keith Jarrett (born May 8, 1945)
Gary Peacock (born May 12, 1935)
Jack DeJohnette (born August 9, 1942)
朝から滞在許可証の更新に出掛ける。前回は寒風吹きすさぶ中で待ったが、今回は半袖。午後にはパソコンの温度計が30度を指していた。時は巡っている。
ところで、更新のためには30ユーロの印紙が必要になる。以前は郡庁そのものが扱っていたが、税務署に変更になっていた。そう言われてコンヴォカシオンを見るとちゃんと書いてある。全く目を通していなかった。早速、税務署に向かう。結局、一時間ほどの早足の散策になった。汗だくのスタートである。ただ、このような状況になっても以前のように苛立つことが全くない。そこでエピクロスが浮かんできた。
エピクロスは人生の目的は幸福の追求であると考えていた。その幸福とは快楽の追求。つなげると、人生の目的は快楽の追求になる。ここで問題になるのが、彼の言う快楽である。これが一般に考えられている快楽と大きく異なる。彼の快楽はマイナスの感覚を前提としている。快楽にもいろいろあるが、彼の求めている快楽とは、心の苦痛、悩みや心配事のない状態、あるいは体の苦痛のない状態になる。前者は ataraxia、後者は aponia と言われる。何かがある状態ではなく、ない状態こそ快楽になる。
こうして見ると、快楽、幸福はゼロの状態、凪の状態のようである。その状態からマイナスが生じた時にその前の状態が幸福であることがわかるという仕掛けになっている。エピクロスの場合には簡単な算術が必要になるのだ。普通に言われる快楽追求とはプラスの状態を目指すが、この状態は長続きしない。さらに、度を超すとその後にゼロの状態ではなく、マイナスに落ち込む可能性もある。ヘドニストも快楽追求を主張するが、この場合にはプラスの状態へ向かうことを意味しているように見える。しかも、幸福追求という視点、その質を考える視点が弱いような印象がある。快楽追求という言葉上ではヘドニストもエピキュリアンと共通しているが、エピクロスの快楽追求は抑制的であり静的である。ヘドニストとはこの点で異なっているのではないだろうか。もちろん、エピキュリアンはプラスの快楽(動的快楽とも言える)をすべて拒否するのではなく、受け入れる立場ではあるが、それは必須のことではない。敢えて言えば、おまけだろうか。
古代ギリシャの同時代の哲学者は人間は政治的な動物でそこに参加することを勧める立場を取っていた。しかし、エピクロスは家庭を持つことや伝統的な政治に参加することを勧めない。むしろ友人とのコミュニティにおいて、自らを啓いていくことを勧める。何かを所有すること、不確かな一般を相手にする時には、それを失い裏切られる可能性がある点で心に波風が立ちやすい状態になる。そのことと彼の考えは関係があるのだろうか。アリストテレス、プラトン、ソクラテスから何ら霊感を受けることのなかった autodidacte を自称していた彼は、35歳の時にアテナイに(学)園 (le Jardin) を作り、そこで考えを共にする人たちと人生の半分の時間を過ごすことになる。友情 (l'amitié) を合言葉として。
今ではエピキュリアンという言葉が食の贅沢の意味合いで使われている。しかし、エピクロスを読むと、パンと水こそが最高の快楽を与えてくれると書かれてある (le pain et l’eau donnent le plaisir le plus élevé)。その昔、ヘドニストとかエピキュリアンと言われたことがあるが、今まさに真のエピキュリアンの境地に入りつつあるのだろうか。今朝のような状況にあっても凪の状態が変わらないというのもその表れではないか、などと考えながら流れる汗を感じていた。