現役と退役の深い溝を埋める、あるいは社会の体と精神 |
昨日、このブログの前身ハンモックから目を通していただいているという YH 様から先日取り上げた句集の編者について貴重な情報を送っていただいた(詳細はこちらから)。そのお便りの中にもう一つ、初めてのニュースが添えられていた。それはハンモックで4年前に触れた詩の作者に関するものであった(2006-03-21)。その作者はまだ若かった息子さんを亡くし、そのことを四半世紀後に初めて綴ることができた篠沢秀夫さんである。
今回新たに知ったのは、氏が今難病の床にいて(3月19日、産経新聞)、家族が新宿区に障害者自立支援法に基づくサービスを申請したところ、区が法律に反した内規をもとに却下したことである (後に、新宿区が謝罪したが、ニュースはこちらから)。昔のエネルギー溢れる姿が印象に残っていたせいか、動画を見た瞬間は驚いたが、人は誰でも最後に向かって歩んでいるので自然な姿ではないかと思い直していた。
今回の行政の対応は、現代社会に深く流れる生と死についての哲学の歪み、あるいは欠如の反映にしか過ぎないように見える。この問題について思索を巡らせることなく過ごしているわれわれには区の対応を批判することはできないだろう。すべてが流され、立ち止まって考えることをしない空気に溢れ、先日も触れたが、吹けば飛ぶようなものに基づいて動いているように見える社会では、驚くに当たらない対応にも見える。この背後には、実際に社会を動かしているかに見える「現役」とそこから退いて社会とは距離を置き、すべてを「現役」に任せている「退役」との間にある大きな溝が横たわっていると考えるようになっている。さらに言うと、死に向かう人と自分はそうではないと思っている人との間の溝でもある。
忙しく社会の「現役」として生きている時には、仕事に追われてなかなか深く考える時間を持てない。もちろん、仕事の中では考えているだろうが、考えるとは本来自らの場所から出て、全体を見直すという態度を伴わなければならないはずである。この営みが一人ひとりに欠けているため、その個人が構成する社会も同様の状態に陥っているように見える。そこにいる「現役」は、自らが「退役」の状態になることにさえ想像力が働かず、「退役」を別物として扱うことになる。おそらく、これは今までも変わらずにあった状態かもしれない。
人間と同様、社会も体と心がうまく絡み合わなければ、活力を発揮できないのではないだろうか。体が元気なうちは体を使うのが生理に適っている。問題はどのようにして精神をそこに組み込むのかということになる。一つは、「現役」という経験をし、体の衰えとともに精神に注意が向かうようになる「退役」の精神活動を生かすことだろう。退職後の人の労働力を生かさないと社会が立ち行かなくなる、という主張をよく聞く。そのような技術的な退役の貢献もあるだろうが、ここでは「退役」の方の精神的な貢献を期待できないかというお話になる。それは添え物の役割ではなく、社会の本質的な構成要素としてである。物質的な貢献をする「現役」と精神的な貢献を目指す「退役」とが垣根を取って交わり、社会に出てゆく。そのことにより社会は少しずつ変わっていく予感がするが、春の夢想だろうか。
仏教には人の一生を4期に分ける考え方がある。特に、人生後半の林住期、遊行期は精神の世界を開く時期と考えることができる。これは私自身の考えとも重なったので、ハンモックでも取り上げたことがある(記事はこちらから)。この時期にいる人の中にあるものが、もっと溢れてきてもよいような気がしている。さらに、それが添え物としてではなく、「現役」の別の在り方として受け入れられるような環境になれば、どんなに素晴らしいだろう。
ところで、篠沢氏の経歴を見てみると、モーリス・ブランショ (Maurice Blanchot, 22 septembre 1907 - 20 février 2003) の専門家とある。実は、私がフランス語を始めて初めて読んだ作家がブランショで、短いので選んだ " L'Instant de ma mort "、"La Folie du jour "、" L'arrêt de mort " に触れ、それまで頭にあった割り切れる世界とは全く異なるその不可解さに大きな違和感を感じていたことを思い出した。ひょっとすると、その抵抗感がフランスの世界に入る一つの切っ掛けになっているのかもしれない。