コロックの中休み、ウイリアム・ジェームズに出会う |
いつもの快晴。そして、冷たい風が続いている。
朝から大学のドクターを対象にしたコロックに出て、終日お話を聞く。今年で10回目になるという会のテーマは、自然科学、社会・人文学が扱う 「データの評価」。これから見直してみる必要はあるが、いつ関係を持ってくるかわからない印象。かなり遠くに感じながら聞いていた。
お昼休みに近くのリブレリーへ。いつものように彷徨っていると引っ掛かる本が出てきた。体調が悪い時以外は、タイミング良く必ず何かが目の前に現れてくれるから不思議だ。今日の本はアメリカの哲学者ウイリアム・ジェームズ (William James, January 11, 1842 – August 26, 1910) の経験論になる。
Philosophie de l'expérience : Un univers pluraliste (2007)
原典は1909年に出た以下の本で、Google Books で読むことができる。
"A Pluralistic Universe" (Hibbert Lectures at Manchester College on the Present Situation in Philosophy, 1909)
翻訳の序文を書いているのはソルボンヌの David Lapoujade という方。その冒頭を読んだ時、反応していた。
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Qu'est-ce qu'un univers pluraliste pour James ? C'est d'abord la conception de l'expérience come une succession de « tous », touts de ce que nous sentons, penson, percevons à chaque moment. Chacun de ces « tous » forme une unité en lui-même, une unité « par soi » dit James, en même temps qu'il se prolonge dans le « tous » suivant. [...] Autrement dit, le pluralisme de James est avant tout affaire de relations. On peut même parler, chez James, d'un Tout de la relation si l'on veut dire par là que « tout se tient » et que rien, dans le monde, n'est absolument isolé, séparé.
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(ジェームズのとっての多元的宇宙とは何か?それはまず、われわれがそれぞれの瞬間に感じ、考え、理解することのすべて、そのすべての連続としての経験の概念である。この全体の各々がそれ自体でひとつのまとまりを作っていると同時に、次の全体の中に続いている。・・・すなわち、ジェームズの多元論とは関係性の問題なのである。「すべては結びついていて」、世界に孤立し、分離されているものは何もないという意味において、ジェームズにおいては関係性の全体について語ることができるだろう)
そして、こう続けている。
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Mais cela ne veut pas dire que les relations forment un Tout achevé, clos sur lui-même dont il serait impossible de sortir, à la manière de l'Un-Tout des hégeliens. C'est même le contraire : il est impossible d'enfermer les relations au sein d'un tout achevé puisque le Tout n'est rien d'autre que la relation elle-même en train de se faire, de tisser ses innombrables fils dans toutes les directions.
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(しかし、それはヘーゲルの言う一全体のように、関係性がそこから抜け出ることのできない、それ自体に閉じた完成した全体を作っているということを意味しない。むしろ、その反対でさえある。完成した全体の中に関係を閉じ込めることは不可能である。なぜなら、全体とは形成されつつあり、あらゆる方向に無数の糸を張り巡らす過程にある関係以外の何ものでもないからである)
ジェームズはこう言っている。
« Les choses sont en rapport les unes avec les autres de bien des manières ; mais il n'en est pas une qui les renfermer toutes ou les domine toutes. Une phrase traîne toujours après elle le mot et, qui la prolonge. Il y a toujours quelque chose qui échappe. »
「ものというのは多くのやり方でお互いに関係を持って存在している。しかし、すべて(あるいはすべての領域)を閉じ込めるものではない。文章はその後に常に 『と』 という言葉を引き摺ることになる。常に捕まえ切れない何かがあるのだ」
全体と部分を取り巻く問題はこちらに来てから引っ掛かり、どのように捉えればよいのか模索している問題でもある。ジェームズの見方によれば、全体とは個々の構成成分が複雑に絡み合ったものだが、でき上がってしまい手の付けられないものではなく、いつもそれが形成される過程にある未完のもの、全体とは言うが、実はそこに向かいつつあるだけで、何かが常に欠けているもの、というイメージが浮かんでくる。このイメージは、これまでぼんやりと感じてきたものに近い。もう少し読んでみたいと思っていた。
ところで、このように手当たり次第に、わが身の感覚器がシグナルを送ってくれるものに触れるというのは心躍るものがある。しかし、それは同時に頭の中がカオスの状態にあることを意味している。これは一つのテーマを掘り下げていく研究者のスタイルではないのかもしれない。ゼロからスタートしている身としては、そこに向かう途中ということで、むしろこのやり方が気に入っている。これまでの反動という面もあるだろう。今の内に、自分が一体どのようなものに反応できるのかを試してみたいと思っているところもある。入口に立ったばかりの状態では、できるだけ間口を広く開けておいた方がよいのではと考えているところもある。それともう一つは、深く掘り下げ過ぎることに対するブレーキがどこかに備わっているようにも感じている。これからどのように変化していくのか、見守りたいところである。